大隅さんノーベル賞受賞おめでとうございます

今夜ストックホルムノーベル賞を受賞される大隅さんについて、「独創性のおじさん〜元同僚として見た大隅博士の素顔」と題して紹介記事を書きました。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48616

大隅さんが朝日賞を受賞されたとき、このブログでお祝いの記事を書きました。

http://d.hatena.ne.jp/yahara/20121111

今回は、大隅さんの研究史をもう少し調べて、より詳しく紹介しました。

JBpressの記事は、そのうち有料になるので、レイアウトなしの原稿を以下に転記しておきます。

なお、今日になって、駒場の関係者による大隅さんあての「思い出文集」が東大広域科学専攻のウェブサイトに公開されていることを知りました。懐かしい方々による思い出の記事が満載です。※なんで私に声がかからなかったんだろう、と少しぼやいてみる(きっと私は専門が違うので、大隅さんの研究のことをあんまり知らないと思われていたのでしょう)。

http://bio.c.u-tokyo.ac.jp/file/OSUMI.pdf

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以下、IBpressの記事の転載です。
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  • 独創性のおじさん〜元同僚として見た大隅博士の素顔 「役に立たない研究」はなぜ役にたつか?

大隅良典さんのノーベル生理学・医学賞単独受賞は、嬉しいニュースだ。10日の授賞式では、基礎研究を心から愛する大隅さんが、世界の若い研究者に熱いメッセージを送られるに違いない。
 私は東京大学理学部植物学教室で大隅博士と一緒に助手・講師をつとめ、その後、駒場キャンパスで一緒に助教授を務めたので、大隅さんの人となりをよく存じ上げている。
 またその背景にあった植物学教室や駒場の、独創的な研究を大切にする文化を共有している。この経験にもとづいて、大隅さんがなぜ独創的なオートファジー研究を開拓できたか、そして“役に立たない研究”がなぜ役に立つかについて考えてみたい。

  • 「面倒見の良い、隣のおじさん」

大隅さんのノーベル賞受賞の知らせを受けた私は、正直なところ「えっ、あの大隅さんが?」という驚きを隠せなかった。
大隅さんのオートファジー研究のすばらしさは知っていたし、朝日賞、京都賞などの数々の賞を受賞され、すでにノーベル賞の有力候補でもあったので、理屈では当然の受賞と理解できる。だが、「ノーベル賞受賞者」というイメージと大隅さんの人となりとが、どうにも合致しないのだ。
 その後、基礎生物学研究所の毛利秀雄元所長による「隣のおじさん」という表現に思わず膝をうった。
隣のおじさん−大隅良典君(ノーベル生理学・医学賞の受賞を祝して)
大隅君と接したことのある人達はお分かりのように、彼はおおらかでおだやかな性格であり、研究室には世界最先端のことをやっているといったピリピリした雰囲気はまったくありませんでした>
 と毛利さんが書かれているとおり、大隅さんは「攻撃的」「権威的」などの言葉とは正反対にある、とてもおだやかな方だ。大隅さんは研究を愛されていて、研究に割く時間をとても大切にされているが、一方では教育熱心でもある。また助手時代から大学の研究環境を良くするための活動にも時間を割かれていた。一言でいえば、面倒見の良い人だ。
 私は1983年1月に東大理学部植物学教室助手に採用されて大隅さんの同僚になったが、大隅さんと親しくなれたのは職員組合のおかげである。
 当時、私の職場だった小石川植物園は、本郷キャンパスにある植物学教室とは1.2kmほど離れていたので、勤務上は修士論文発表会・博士論文発表会などの教室の行事で顔をあわせるだけだった。
 しかし職員組合では、より頻繁に会う機会があった。例えば、大隅さんと一緒に職員組合で理学部助手層を対象にアンケートをとり、以下の報告を一緒にまとめたことがある。
矢原徹一・大隅良典・松本淳(1987)若手教官は何を望むか−大学の転換期にあたって 科学57(11), p730-733.
 当時、臨時教育審議会が若手教官への任期制導入を含むさまざまな大学改革案を提言したため、私たちは大学の研究教育をより良くする上で何が本当に重要な問題かをアンケートにもとづいて考えてみた。
 この記事を読み返してみると、私たちが憂慮した事態が、その後、現実になったという残念な事実に気づかされる。たとえば博士課程の大学院生を増やす政策がとられたが、指導する教員の数は増やされなかったので、教員はますます忙しくなり、研究に割く時間が減ってしまったのだ。
大隅さんはこのように、周囲の環境を良くする活動にも時間を割く利他的な方だ。最近では(といっても8年前だが)、以下の記事を発表されている。
大隅良典(2008)基礎生命科学の憂うべき状況について 学術の動向2008(5), pp. 72-73.」
 この中で、大隅さんは以下のように書かれている。
<流行は既に多くの人が注目していることの証であり、研究の独創性は単なるインパクトファクターや引用度だけでは計れるはずがない。自然の理を明らかにしようという当たり前の喜びを若い世代が取り戻す必要がある。>
ノーベル賞受賞決定後に、大隅さんは「役に立つかどうかという観点でばかり科学を捉えてはいけない」と繰り返し発言されているが、その姿勢は以前から一貫している。その背景には、大隅さんと私がともに体験した東大理学部植物学教室(本郷キャンパス)や駒場キャンパスでの、独創的な研究を大切にする文化がある。

  • 絶対に人まねはしない

東大理学部植物学教室の文化を一言で言えば、人まねをせずに世界のトップに立つことだ。私が着任した1983年当時、この文化を牽引されていたのは、植物形態学講座の古谷雅樹教授と遺伝学講座の飯野徹雄教授だった(当時の植物学科は、教授1、助教授1、助手2からなる「講座」と呼ばれる教育研究ユニットに分かれていた)。
 古谷雅樹教授は赤い光を感じる植物タンパク質「フィトクローム」の研究で世界をリードされていたし、飯野徹雄教授は大腸菌のべん毛が回転する仕組みについて独創的な研究をされていた。飯野教授の研究は『回転する生命』という魅力的なタイトルの普及書に紹介されているので、興味がある方はぜひ一読されたい。
 また、植物生理学講座の田沢仁教授は、シャジクモ(湖やため池に生息している全長10〜30cmほどの藻類)の巨大細胞を利用し、細胞の両端をハサミで切り、液胞膜(この膜は大隅さんの研究と関わりが深いのであとで述べる)を取り除いた後、細胞の内容物を入れ替えるという奇抜な実験系を開発し、細胞の中で物質を動かす植物の「筋肉系」について研究されていた。
 さらに、植物生態学講座の佐伯敏郎教授は、「門司・佐伯モデル」として世界的に知られる「群落光合成モデル」の実質上の開発者であり、植物の光合成や呼吸を記述する数理モデルと精密な測定を結び付ける生理生態学の研究をリードされていた。
 彼らは、戦後の厳しい研究環境の中で奮闘し、欧米の科学に勝るとも劣らない、独自の研究成果をあげた方々ばかりである。彼らにとって、欧米の流行の後追いは、論外の行為だった。
 そして、上記の講座よりも新たに設置された生体制御学講座には東大薬学部出身の安楽泰宏教授が着任し、大腸菌の細胞膜における物質輸送の研究で世界的な成果をあげられていた。大隅さんはこの研究室に、1977年に助手として着任された。この着任は、私が小石川植物園の助手になる6年前のことだ。
大隅さんは安楽教授から、「私は大腸菌を研究するから、君は酵母の研究を続けなさい」と言われたそうだ。そこで大隅さんが着目したのが、液胞膜だ。
※この経緯を含め、大隅さんの生い立ちや研究史については、JT生命誌研究館ウェブサイトの以下の記事に詳しく紹介されている。
自分を食べて生き残る細胞に魅せられて
「液胞」とは、植物細胞の中にあり、細胞の体積の80〜90%を占める細胞内小器官(オルガネラ)だ。大隅さんが液胞膜(液胞を包んでいる膜)の研究を始めた当時、「液胞」への注目度は低かった。
細胞内小器官のうち、ミトコンドリアは動物にも植物にもあり、酸素呼吸によって細胞内のエネルギー源となる物質をつくる重要な機能を担当している。また葉緑体は植物にしかないが、太陽エネルギーを使って二酸化炭素と水から炭水化物をつくり出すプロセス(光合成)を担当している。この両者を東西の横綱とすれば、液胞はせいぜい小結くらいの地位しかなかったと思う。
 その機能はといえば、植物細胞の大部分を占めているので、「空間充填剤」のようなものだろうと考えられていた。また、樹木の葉が紅葉するときには液胞の中にアントシアニンという色素が蓄積される。このように、特定の物質を溜め込むという機能がある。
 植物では動物のように消化・排泄器官がないので、液胞に老廃物を溜め込んでいるのだろう。要するに、植物細胞の「ごみ溜め」だ。一部のごみは分解されるようだ。当時の「液胞」についての認識はこんなものだった。
 その「液胞」を研究対象に選ぶというのは、流行に完全に背を向ける態度だ。しかし東大理学部植物学教室では、この態度が高く評価された(というよりも、むしろスタンダードだった)。流行を追う研究は「二番煎じ」であり、東大でやるべきことではないという不文律があった。
 ビジネスに例えれば、自分で起業し、オリジナルな商品や技術を開発してこそ次の時代のトップを狙えるのだという考えが徹底していた。ノーベル賞につながる研究を生み出した1つの原動力は、「絶対に人まねはしない」というこの信念だ。
 先日、文部科学省の幹部の方に「卓越大学院」(文部科学省が構想している次の大学院改革予算)について意見を述べる機会があったので、私は以下のように述べた。
「資料の中に、卓越という言葉は何度も出てきますが、独創という言葉が1回も出てきません。世界トップレベルの研究業績を出すという意味での卓越なら、それは一流の研究者にとっては当たり前の話です。もっと大切なのは、独創性です。すでに多くの人が注目しているテーマではなく、その人だけが気付いた独創的なテーマで、新しい研究のトレンドを創り出す、そういう研究が大事だと書いてください。大隅さんならきっとそうおっしゃると思います」

  • 大隅さんはなぜ液胞の研究に取り組んだか?

一方で、誰もやっていないテーマは、重要ではないからやられていない場合が少なくない。独善ではなく独創的な研究をするには、重要なテーマを選ぶ必要がある。
 液胞の場合、何しろ植物細胞の体積の80〜90%を占める器官だ。ただの「空間充填剤」兼「ごみ溜め」とは思えない。液胞の研究を通じて、植物細胞の未知の機能を解明できるのではないか? 大隅さんが液胞の研究を開始されるにあたって、およそこのようなビジョンがあったのだと思う。
大隅さんと知り合ってから、このようなビジョンを伺い、興味をそそられた記憶がある。それは間違いなく、未開拓の重要なテーマだった。ただし、液胞の研究がよもや我々ヒトにまで共通する細胞内分解系の発見につながるとは、誰も予想していなかった。
大隅さんがはじめて液胞に興味を持ったのは、東大着任前に滞在されていたロックフェラー研究所のジェラルド・モーリス・エーデルマン博士(抗体分子の構造を解明し1972年にノーベル生理学・医学賞を受賞)の研究室で、酵母の研究を開始された1976年のことだ。
大隅さんは細かく砕いた酵母細胞を含む溶液を遠心分離機にかけ、試験管の底に沈んだ細胞核を単離する際に、上澄み液(核を単離する上での不要物)の中に何かが濃縮されていることに気づいた。顕微鏡で覗いてみたところ、それが液胞だったのだ。
酵母の液胞は1ミクロン(1mmの1000分の1)程度で、植物細胞の液胞に比べればずっと小型だが、それでも顕微鏡ではっきりと形が観察できる大きさだ。その事実は大隅さんの心をとらえ、のちのオートファジーを「見る」という発見につながった。
安楽研究室で酵母を使って新しい研究を始めることになったとき、大隅さんはこの経験から液胞を研究対象に選ばれた。そして、安楽研究室が達成していた研究の成果を生かし、液胞膜での物質輸送の研究に着手された。この研究は確かな実を結び、液胞膜を介したアミノ酸の能動輸送の発見(1981年)、液胞型ATP分解酵素の単離・精製(1985年)などの論文を発表された。
 私は1983年に小石川植物園の助手に着任し、1987年に日光分園の講師になったが、大隅さんは1988年に駒場東京大学教養学部)の助教授に転出。その後1991年には私が駒場助教授となり、大隅さんと同じ職場でほぼ毎日顔をあわせる関係になった。
 その頃、大隅さんは、ノーベル財団のプレス発表で「Key Publications」としてリストに挙げられた4つの論文のうち、最初の論文(1992年出版)を執筆されていたはずだ。
ノーベル財団のプレスリリースは<こちら
大隅さんは駒場助教授になった時点で、安楽研時代の研究に区切りをつけ、新しいテーマに挑戦された。液胞がいろいろなものを取り込んで、分解していることはほぼ確実だったが、どうやって取り込み、どうやって分解しているかはまったく謎だった。その謎に挑戦されたのだ。
 今となっては、オートファジー系による分解が、細胞の正常な機能維持に必須だと分かり、だから大隅さんはノーベル賞を受賞されたわけだが、当時は「分解」というプロセスに多くの生物学者は興味を持っていなかった。「人のやらないことをやる」上で、分解の研究は格好のテーマだった。

  • 成功を生んだのは「見ることへのこだわり」

大隅さんは、液胞内での分解について調べるにはどうすれば良いかを考えているうちに、ある時、ひらめいたそうだ。
酵母は飢餓状態になると、細胞内部をつくり変えて胞子を形成する。液胞が分解機能をもつとすれば、飢餓状態のときに分解が活発化するのではないか。もしそうなら、液胞内での分解酵素を持たない酵母を飢餓状態に置けば、何か見えるのではないか? 
 当時までに、酵母ではさまざまな突然変異体が集積されていた。大隅さんは、液胞内で分解酵素が作られない変異体を取り寄せ、飢餓状態で何が起きるか顕微鏡で観察してみた。すると、液胞の中に小さな顆粒が次々と蓄積した。細胞質の成分を取りこんだ膜構造が液胞に取り込まれたものの、分解されずに溜まったのだ。
 このように細胞質をとりこむ作用はすでに知られており「オートファジー(Autophagy)」(自ら(Auto)を食べる(Phagy):自食)と呼ばれていたが、誰も見た人はいなかった。大隅さんはそれを世界で初めて顕微鏡で見たのだ。
ノーベル財団のプレス発表では、この実験を“A groundbreaking experiment(画期的な実験)”として紹介している。大隅さんは液胞内に溜まった顆粒を「オートファジックボディ」と命名した。
大隅さんは、1988年の駒場着任の2カ月後にこの画期的な発見をされたそうだ。その後は、電子顕微鏡による観察などの詰めの作業をして、1992年に論文を発表された(注:JBpressの記事にはこの論文から電子顕微鏡写真を引用させていただいた)。
私が駒場に着任した1991年には、大隅さんは次の段階の研究に取り組まれていた。「液胞の形が異常になった突然変異を探してるんだよ」と楽しそうに話されていたことを覚えている。異常が生じているということは、何らかの重要な遺伝子が機能していないことを意味する。大隅さんは形の異常を手掛かりに、その原因遺伝子を突き止めようとしたのだ。
 液胞の形が異常になった突然変異を探すには、酵母を1個1個顕微鏡でチェックする以外にない。これはすこぶる効率の悪い研究方法だ。突然変異を探す多くの他の研究では、もっと効率の良いスクリーニング法が使われている。
 ただし、例外はある。大隅さんがロックフェラー時代に酵母の研究に着手するきっかけとなった、リーランド・ハートウェルの細胞周期の研究だ。
 細胞は分裂をしていない間期(かんき)に、DNAの合成や複製を行う。いまではG1期、S期、G2期と呼ばれる3つのステージでDNAの合成や複製のタイミングがきちんと制御されている。これを細胞周期と呼ぶが、ハートウェルらは細胞周期の制御が異常をきたした突然変異体をたくさん見つけた。そのときには、細胞分裂が正常に進行していない細胞を、顕微鏡観察で探した。
 ハートウェルらが発見した細胞周期分裂異常の突然変異体(cell division cycleを略してcdc変異体と名付けられた)は、細胞周期の研究を飛躍的に進歩させた。そして、cdc変異体の原因遺伝子の多くは、ヒトにおいてガンの原因になる遺伝子だった。ガン細胞は、細胞周期の制御に異常が生じ、分裂してはいけない場所で、分裂を続ける細胞だったのだ。
 ハートウェルは、細胞周期の中心的な制御因子を解明した業績により、2001年にノーベル生理学・医学賞受賞した。大隅さんが液胞の形態異常の突然変異体を探すアプローチを採用されたとき、ハートウェルらの細胞周期の研究法が念頭にあったことはたぶん間違いないだろう。
大隅さんは酵母に薬剤処理をして突然変異を誘発させ、飢餓状態でもオートファジックボディ(液胞内に蓄積する顆粒)がうまく形成されない突然変異を探した。「変異誘発処理をした約5000個のコロニーを形態にもとづいてスクリーニングした結果、10個の候補が得られた」と論文には書かれている。約5000個のコロニーから酵母細胞をピックアップし、細胞の液胞を一つひとつ「見て」、オートファジックボディが溜まっているかどうかをチェックしたのだ。
 その結果、見つかった10個の候補から、「apg1」と命名された1つの変異体が見つかった。この変異体では、飢餓状態でオートファジックボディが確かに蓄積されないので、オートファジーのプロセスに関与する遺伝子の1つに異常が生じているはずだ。
 このapg1変異体は、飢餓状態に3日置くと、4割程度が死んでしまった。この性質を利用して、次の段階では飢餓状態で死亡しやすい変異体がスクリーニングされた。この方法なら、細胞の中を一つひとつ見なくてよいので、ずっと効率が良い。死んだ細胞を赤く染める色素を使い「変異誘発処理をした約3万8000個のコロニーから約2700個の赤いコロニーを選抜した」と論文にある。
 しかし次は見なければならない。大隅さんと、大学院生の塚田美樹さんは、約2700個のコロニーについて、一つひとつ顕微鏡で液胞を見てオートファジックボディの蓄積をチェックし、その結果、蓄積が進まない99個の変異体を発見した。
 これらについて交配実験をして、ABO血液型のように同じ遺伝子の変異(対立遺伝子という)なのか、それとも違う遺伝子なのかを決める作業をした。一部の変異体は胞子をつけないので解析対象から外した。このような作業の結果、最終的に14個の遺伝子の変異体が見つかった(論文では15個と書かれているが、その後の研究で2つは同じ遺伝子と分かったようだ)。
 現在分かっているオートファジー遺伝子は18個なので、大隅さんと塚田さんはほぼ8割の遺伝子をこの時点で突き止めたことになる。この研究を報告した論文は1993年に出版された。

  • 基礎科学をもっと大切に

 さらに次のステップは、これらの遺伝子の機能を一つひとつ解明することだ。この段階では、マンパワーが必要になる。駒場時代にもいくつかの遺伝子のDNA配列を特定して、機能解析へと研究を進められたが、研究が大きく進展したのは岡崎市にある基礎生物学研究所に移籍されてからだ。
基礎生物学研究所に教授として1996年に着任されたあと、大隅さんは助教授に吉森保さん(現大阪大学教授)、助手に野田健司さん(現大阪大学教授)と鎌田芳彰さん(現基礎生物学研究所助教)を採用され、その後に水島昇さん(現東京大学教授)が研究員としてチームに参加され、オートファジー遺伝子の研究を推進する強力なチームができた。
 このチームの下でオートファジー遺伝子の機能解明が進み、やがてこれらの遺伝子が哺乳類でも保存されており、オートファジーによる分解系が動植物・菌類に共通するタンパク質のリサイクルシステムであることが判明した。そして、病気との関連も次々に確認され、医学的にも重要なテーマになった。
 今や、オートファジー研究は役に立つ研究であり、流行のテーマだ。その流行の最先端にいる大隅さんは、流行を追うな、人まねはするなという発言を繰り返されている。それは、基礎科学を愛する研究者の心からの声だ。
 先に紹介した、文部科学省の幹部の方に伝えた私の意見には続きがある。
「最近の科学技術政策の文書を見ると、私たち基礎科学者は息苦しいんですよ。役に立つことばかりが強調され、純粋に好奇心から取り組む研究を大切にしようという姿勢が感じられない。私たちは役に立つ研究の重要性は十分に分かっていますし、文部科学省財務省から予算をとってくる上で、役に立つという説明が重要だと言う事情も承知しています。しかし、私たち大学教員に向けてその説明しかないと、息苦しいんです」
 基礎研究者は、役にたつかどうかではなく、面白いかどうかで研究テーマを選ぶ。これは一見遊んでいるように見えるかもしれない。しかし、研究者が「面白いね」と思うテーマには、意外性と重要性があるのだ。「今まで思いつかなかったけど、それは大事だね」というような着眼やアイデアを、基礎研究者は大切にする。そしてその姿勢は、科学上の大きな謎を解くことにつながる。
 大きな謎が解ければ、その成果はほぼ例外なく役に立つ。なぜなら、大きな謎が解ければ、現象への私たちの理解が大きく深まるからだ。医学に例えれば、対症療法ではなくより根本的な治療が可能になるのだ。
大隅さんのオートファジー研究や、ハートウェルらの細胞周期の研究は、純然たる基礎研究が大きな医学的インパクトを与えた良い例だ。
 しかし、基礎研究は実は役に立つのだということを繰り返し説明しなければならない状況が、私たちには息苦しい。この状況には、文部科学省財務省だけでなく、大学にも責任がある。大学にも、研究そのものの面白さや大事さよりも、獲得した研究費の額や、発表した論文数を評価する風潮が蔓延している。
駒場の小さな実験室の片隅で、酵母の培養器と顕微鏡くらいの設備で、少額の研究予算で実施された研究が、ノーベル賞につながった。このような研究は、今も大学のあちこちで生まれている。そこから生まれた発見を、「面白いね」「今まで思いつかなかったけど、それは大事だね」と評価する文化こそが、次の時代の科学を育てる。
ノーベル賞につながる研究を生み出した1つの原動力は、絶対に人まねはしないというこの信念だ」と書いたが、もう1つ大事な原動力があるのだ。それは好奇心だ。
 未知の大きな謎への好奇心を国民の間で広く共有する社会でありたい。大隅さんのノーベル賞受賞が、その方向に社会を動かす力となることを願って、私もささやかながら、科学の面白さを社会に届ける努力を続けていきたい。