人類集団には有害遺伝子が蓄積しているか?

ついに、授業終了。週3−4回の授業、しかも2つははじめて担当する科目の授業をこなすという「苦行」が終わった。今日は、焼肉を食べて自分で慰労会をした。Mくん、Yさんがつきあってくれた。
今日の「生態学II」最終回では、前回の授業で書いてもらった質問をとりあげて、解説をした。質問票の中で、寿命の進化に関する有害突然変異蓄積説と拮抗的多面発現説について、もういちど説明してほしいというリクエストがいくつもあったので、「有害突然変異蓄積説」については、とくに詳しくとりあげて解説した。このテーマは、「集団生物学」の最終回でもとりあげたので、パワーポイントファイルの用意がすでにできていた。ココにpdf化したスライドがあるので、興味がある方は参照されたい。ただし、大部分の図は著作権の関係で、省略されている。引用文献は明示されているので、それをもとに各自調べていただきたい。
Crow(2000)[Nature Review Genetics 1: 40-47]の次の見解は、遺伝学者が繰り返し述べてきた警鐘である。

  • We are certainly accumulating mutations faster than they are being eliminated. (われわれは疑いなく、自然淘汰による除去よりも早く、有害突然変異を蓄積している)

20世紀前半には、この見解が「優生学」という忌まわしい運動に利用された。上記のスライドでは、「優生学」の歴史についても、簡潔に紹介している。
さて、Crow(2000)に代表される見解は科学的に妥当だろうか。
確かに、いくつかの有害突然変異は、人間の一生のうちに生殖細胞(とくに精子)において新たに生じる。その発生率は、年齢とともに増加するという確かな証拠がある。Crow(2000)が図示している証拠は、軟骨形成不全症・アペール症候群の発生率である。このほか、統合失調症ハンチントン病などは、父親の年齢とともに発生率が増大する。これらは精子形成の過程で生じる突然変異が次世代に伝えられる例である。もしこのような突然変異が一般的なら、ヒトの寿命が延びて、高齢出産が一般的になれば、「有害」な突然変異が増えていくだろう。
また、衛生状態の改善と医療の発達によって死亡率が低下した結果、かつてはより有害度が高かった遺伝子が、弱有害変異、あるいはほとんど中立な変異へと変化した例は多数あるだろう。弱有害変異はより有害な変異よりも発生率が高く、かつより弱い淘汰しか受けないので、集団中での平衡頻度は高くなる。その結果、自然淘汰による除去よりも早く、蓄積していく。これがCrow(2000)の主張である。
授業ではまずこの主張の論理と証拠を説明した。そして「われわれは疑いなく、自然淘汰による除去よりも早く、有害突然変異を蓄積している」という結論に納得できたかどうかを聞くと、3割程度の学生が納得できたと回答した。なぜかは判然としないが納得できないという学生が約1割。他の学生は、判断がつかないという結果であった。
そのあとで、私の見解として、Crow(2000)への反論を述べた。
第一に、軟骨形成不全症・アペール症候群の原因となるFGFR2, FGFR3の突然変異は、非常に特殊な例である可能性がある。これらの突然変異は、遺伝子配列の特定のサイト(ホットスポット)で頻発している。しかも、FGFR2の突然変異は、精子が形成される過程での細胞間競争において有利なのだという、実に興味深い論文がScienceに2003年に発表されている。このような事例がどの程度一般的かは、現在のところ正確には判断できないが、かなり例外的な突然変異機構である可能性が高いと思う。もし一般的なら、すでに判明しているいろいろな遺伝病の遺伝子で、同様な発見があいついで報告されても良いはずだ。
ハンチントン病に関しては、マイクロサテライトが原因であることがわかっている。この場合、CAGの反復数が少ないうちは発症しないが、反復数が多くとともに発症するようになる。そして、男性が年齢を重ねるとともに、精子形成の過程で反復数が増えていく(つまり方向性をもった突然変異が生じる)ことがわかっている。
統合失調症は約150人に一人が発症する、発症率の高い病気である。父親が20代の子では141人に一人の発症率だが、父親が40台前半の場合には80人に一人、50台の場合には47人に一人に、発症リスクが増加する。このリスクの増加はきわめて顕著であり、ハンチントン病に似た方向性の突然変異が原因かもしれない。
今のところ、父親の年齢とともに顕著に変異率が増加する確かな事例は、この程度である。私は、これらの事例は、多くの遺伝子に生じる点突然変異とは異なる、特殊な事例ではないかと疑っている。現時点で、これらの少数事例から、有害遺伝子蓄積の脅威をあおることは、科学者として納得がいかない。
第二のポイント、つまり、「かつてはより有害度が高かった遺伝子が、弱有害変異、あるいはほとんど中立な変異へと変化した例は多数あるだろう」という点に関しては、Crowをはじめ多くの遺伝学者がこの点をあたかも大問題のようにとりあげることが不思議でならない。現代の衛生環境と医療の下で、ほとんど中立なら、それは有害遺伝子とはいえない。その運命は偶然に左右されるだけで、人類集団の中に蓄積していくと考えるのはおかしい。戦争や飢饉が起きれば、再び有害になるとCrow(2000)は主張しているが、これもかなり馬鹿げた意見である。かつては有利だった変異が、食生活の変化とともに有害遺伝子に変化した例も少なくない。高血圧、糖尿病など、いわゆる生活習慣病の原因となる遺伝子の多くはその例である。では、食生活の変化には人類集団に有害遺伝子を蓄積させる効果があると言えるだろうか。
環境が変化したために、淘汰圧が変化した。それだけのことである。そして、全体としては淘汰圧は弱まっている。それは遺伝的変異の運命がより偶然に左右されるように変化したことを意味するだけである。
それを好ましいと思うかどうかは、人間の価値観の問題だが、淘汰圧が弱まるということは、ヒトが死ななくなっているということであり、通常の価値観をもつ多くの人には、好ましい結果に違いない。
以上の理由により、人類集団に有害遺伝子が蓄積しているという20世紀初頭以来の遺伝学者の警告には、いまだにたいした根拠はないと考える。
ただし、親になるのは、若いとき(適応戦略として設計されたヒトの繁殖期の範囲内)のほうが良いことは、かなり確かである。母親では、30代後半よりも高齢になると、ダウン症などのトリソミーの発生率が顕著に高くなる。父親においても、染色体突然変異が年齢とともに増えるという証拠がある。これらの知識は、高校できちんと教えるほうが良いと思う。