パワー・エコロジー

生態学界のスーパーマリオ、こと東正剛さんが、この3月で北大を退官されるそうだ。この退官記念に、弟子たちが書いた本、そのタイトルはといえば、「パワー・エコロジー」。

生態学会書籍売り場で本書を手に取ってみて、やっとその意味を理解した。「ちからわざの生態学」という意味である。本書の執筆者は、「頭はついてさえいれば良い、生態学は体力だ」、という正剛イズムに感化された学生たち。彼ら(+彼女1名)は、北海道はもちろんのこと、パナマ・ボルネオ・オーストラリア・ケニアなど世界各地のフィールドで正剛イズムを実践し、悪戦苦闘しつつもフィールドワークの楽しさにとりつかれ、悔いなき道を歩んだ。本書は彼らの「青春群像」が浮かび上がる「自伝集」。東京から福岡にもどるJALの機内で一気に読んだ。読んでいてうれしいのは、弟子たちが自分の研究人生に満足していることだ。まだ職につけず、将来どうなるかわからなくても、好きなことをやって、自分だけの世界を切り開いている。その充実感は何物にも代えられないのだ。
東さんとは、去年、屋久島空港でばったり会った。
「あれ、東さんじゃないですか、なんでまた屋久島に?」
「いやぁ、この年まで屋久島に来たことがなかったので、定年になる前にぜひ屋久島を見ておこうと思って・・・」
きっと、昨年出かけられたのは屋久島だけではあるまい。
そのフィールド派、「体育会系」の東正剛さん下には、やはり「体育会系」の弟子たちが集った。本書を読むと、東さんが実に多彩な人物を育て、大学のみならず、多彩な職場に人材を送り出してこられたことがわかる。その東さんが教育研究の現場を退かれるのは実に残念だ。ダイヤモンドが言うとおり、経験豊富でかつ元気もある年寄りに、さらなる活躍の場を提供する社会でありたい。東さんには、退官後もぜひこれまでどおり、いやこれまで以上に世界をかけめぐり、「体育会系」生態学を発展させてほしい。
なお、「体育会系」生態学という表現には、決してネガティブな意味はこめていない。私も実は、かなり体力勝負の研究をしてきた。明日からもマレーシアに飛び、熱帯林でトランセクト調査をする。仮説検証も好きだが、オリジナルな仮説をたてるためには、現場経験が何よりもモノを言う。また、良いアイデアが浮かばないときには、関係ありそうなデータをかたっぱしから取ることが、局面打開のうえで有望な研究方法だ。そのことは、私の自伝『花の性 その進化を探る』にも書いた。
私はいわゆる「体育会系」のクラブやサークルに所属したことはないが、中学・高校時代には週末登山に明け暮れる生活をしていた。植物採集のためである。そのときに身に付けた体力のおかげで、いまも元気にフィールドワークができている。植物採集というのは結構過酷な運動で、登山と違って帰路ほど荷物が重くなる。また、岩場や急斜面には変わった植物が多いので、登山部やワンゲルでは決して歩かないルートを歩く(ときに走る)ことが少なくない。山頂部の植物をねらうときには、途中休憩などせずに一気に山頂をめざす。このような経験があるので、力わざは好きだ。
一方で、自分の研究の意義を高めるためには、頭も使うし、新技術も使う。しかしそれは東さんも同じだ。「パワー・エコロジー」を読むと、アクチャカヤの応用個体群生態学を読んで絶滅リスクのシミュレーションのことを知っていただの、研究室の立ち上げにあたって分子的アプローチを東研の看板にしようと企てただのというエピソードが書かれている。「頭はついてさえいれば良い、生態学は体力だ」といって弟子たちを励ましつつ、体力勝負でとったデータを論文にするための知恵と技術も、実はしっかりカバーされている。その裏付けがあるから、弟子たちの仕事はきちんと論文になり、成果としてつみあがってきた。
とはいえ、「頭はついてさえいれば良い、生態学は体力だ」という旗印を鮮明にして弟子たちを感化し、「パワー・エコロジー」という本を書かせるに至らしめたカリスマ性こそ、東さんの真骨頂である。これは私にはできない。私は「やりたいことをやればいいんじゃない」主義で、旗印を鮮明にして引っ張るのは、実は苦手だ。立場上その必要性を認識して、旗をふる役回りにしばしば憂き身をやつしてはいる。しかし、私が旗を振らなくても、みんなが自由に好きなことをやって、それで成果があがり、みんなが満足してくれたら、それにこしたことはない、と思っている。したがって、旗をふるときにはいつも迷いがある。それもまた、ひとつの生き方だろう。
本書には、東さんとその弟子たちのオーラがただよっている。それに感化されて、オーラを身にまとうことを目指すもよし、「体育会系」生態学とは違った道を模索するもよし。いずれにせよ、自分の道を探そうとしている若者には、ぜひ読んでほしい本だ。