納棺夫日記

納棺夫日記 増補改訂版
青木新門
文春文庫
ISBN:97841673230228

映画「おくりびと」のテーマが「愛」であるのに対して、本書のテーマは「死」。宗教観以前に、とりあげているテーマが大きく異なる。本書の著者が、映画「おくりびと」の脚本を読んで、映画化を断ったという事情も、本書を読んで納得がいった。
映画「おくりびと」は、本書で記述されている著者の体験をかなり丁寧に描いており、その点では原作に対する十分な敬意を払っていると思う。
著者は、納棺にかかわる職についたときに、「恥さらし」「けがらわしい」とののしられ、人の眼を気にするようになり、悶々とした日々を送った。しかし、ある出来事をきっかけに、死から目をそらさずに納棺の仕事に向かうようになる。このシークエンスは、映画でもきちんと描かれている。設定が変えられているので、著者には不満かもしれないが、「(死という)己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない」(33ページ)という著者のメッセージは、映画でもきちんと伝えられていると思う。
しかし、死を「けがらわしい」ものとしてみる根深い通念について考え続けた著者の結論は、映画ではまったく描かれていない。著者がたどりついた結論は、以下の文章に要約されている。
「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することになる。」(39ページ)
「人は死に照らされて生が輝いて見えてくるなどと言うが、ほんとうは死を受け入れることで、生死を超えた光に照射されて生が輝いて見えてくるのだ。」(168ページ)
このような結論だけを抜き出すと、あまたある死生観のひとつのように読めてしまうかもしれない。しかし、著者の結論には、納棺という仕事の現場で、死の「現場」を見続けてきた経験にもとづく説得力がある。著者の経験は、「現場」を知らない私に容易に要約できるものではないので、興味がある方はぜひ本書を読んでいただきたい。
著者は次のように述べている。
「今日のあらゆる分野で最も必要なことは、現場の知ではないだろうか。経典学者の知ばかりが先行しているのが気にかかる。・・・教条的な説法をしてきた僧侶たちにとって面食らうことは、死に直面した人の前では仏典の解釈や安っぽい善意など、何の役にも立たないことに気づくことである。」(136ページ)
このように、著者はあくまで現場にこだわる。この姿勢は、科学者に通じるものであり、大いに共感できる。実際、著者は科学に敬意を払い、「科学が、宇宙や生命の謎を解き明かそうとしている時代に、霊魂を信じるアニミズムが数千年まえと変わりなく人々に心に救っている」(83ページ)ことを嘆いている。この主張もまた、著者の現場経験にもとづくものである。たとえば117ページに、興味深いエピソードが紹介されている。著者がひどく硬直した死体に仏衣を着せるために悪戦苦闘し、硬直した腕を和らげて伸ばしたところ、「お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と言い出す人が出て、みんなしてお題目をありがたがったという。「あの時ほど、宗教というものに不信感を抱いたことはなかった」と著者は書いている。
しかし、著者は宗教を否定しているわけではない。現場で「死」と向き合いながら、多くの宗教書に取り組み、親鸞の「如来は光なり」という結論に真実があると考えるに至った。また、科学者であり、仏教者でもあった宮沢賢治の詩から、死を受け入れる、すきとおった風のような思想を読み取っている。
私はこれまで生にこだわりがあり、「死を受け入れる」という課題を真剣に考えたことがなかった。このため、著者の主張をどう受け止めて良いのか、まだよくわからないでいる。しかし、「死」を不浄のものとみる数千年前から続く通念と、終末まで「生」の維持に全力を尽くす現代の医療が、死を迎える者の心に必ずしも安らぎを与えないことを、本書に教えられた。
本書は、「現場の知」に依拠した死生論として、比類のない一冊である。