母の自伝出版記念会


昨日82歳の誕生日をむかえた母が、自伝を出版した。今日はその出版を祝う会に、約30名の親族が集まった。何十年もお目にかかっていない方との再会を果たし、また、これまでにお目にかかる機会がなかった方々と知り合う良い機会になった。
自伝は、410ページの大作である。77歳で書き始め、約4年を費やして完成を見た。
昭和3年に生まれ、戦前、戦中、戦後を生きた母の自伝は、ひとつの昭和史である。
女学校で英語教育が廃止になったとき、「英語の本はいらんようになったよ」という母に対して、祖父(母の父)は「戦争はやがて終わる。この国の言葉が必要になる時がくるから、大切にとっておきなさい」と語ったという。このエピソードは母から何度か聞かされていたが、その祖父の人となりを本書でより詳しく知ることができた。戦前、戦中、戦後の小学校教育に献身した祖父の人生は、母に引き継がれ、そして私の人生にも有形無形の影響を残しているに違いない。
母は、長崎県大村の師範学校で、原爆投下を目撃している。投下の翌日からは、大村の病院に運ばれた被爆者の介護にあたった。当時の様子を私はさほど詳しく聞いたことがなかった。本書でも、多くのページを割いてはいないが、9日間の被爆者介護の様子は、経験者だけが語ることができる記録だ。本書に文章で書きのこしてくれたことをありがたく思う。
比較的自由に家庭に育った母が、戦後という時代に教師という職を持ち、子育てをしながら生きた人生は、それだけで一つのドラマである。戦後は多くの文学や映画などで描かれているが、本書を読むと、事実にはフィクションをこえるものがあることを痛感させられる。
小頭症という障害を持つ妹の出産をきっかけに、母は障害児教育に献身的に取り組むようになった。その実践記録は、昭和60年に出版した「すてきな日々をありがとう」にまとめられているので、本書では短く紹介されているだけである。退職後に自宅に障害児をふくむ子供たちを招いて始めた「たんぽぽ童話館」についても、簡潔な紹介しかない。「童話館作り」の節で383ページに達しているので、この話題の詳細については割愛された。
これからも元気で過ごし、今度は童話館の思いでについて筆をふるってほしいと願う。