おくりびと

おくりびと」は、「ヤッターマン」とは対極にある映画だ。観ていて、静かな涙が止まらない。
感動作が扱うテーマにはいくつかのパターンがある。友情の勝利、感動の再会、愛する者への献身、永遠の別れ、そして未来への希望。この映画にも、愛する者への献身、永遠の別れ、未来への希望という3要素がうまく取り入れられてはいる。しかし、この映画は「死者への愛」をテーマにとりあげた点で、異色の作品だ。このテーマをめぐる物語に、「生者(親子・夫婦)への愛」と「生まれてくる者への愛」についてのサイドストーリーをからませ、3つの愛を一体化させて見事に描いた。この着想には、感服させられた。
「愛」とは、人間と他の動物の違いを際立たせている特徴のひとつである。他の動物にも求愛行動は普遍的に見られるが、人間のそれとは決定的に違っている。何が違うかといえば、相手の心を思いやることは、おそらく人間にしかできないという点だ。
心理学の分野で、「サリーとアンのテスト」の名で知られる有名な実験がある。サリーとアンという2人の人物が登場する劇を幼児に見せ、簡単な質問をする。その質問への回答から、3歳くらいまでの幼児は、他人の「こころ」がわからない、という結論が導かれている。
劇では、まずサリーが舞台に登場し、バスケットにおもちゃ(お菓子でもボールでも良い)を入れて立ち去る。次にアンが登場し、おもちゃをバスケットから取り出し、隣の箱の中に隠して立ち去る。そのあとで、サリーが再び登場する。ここで質問。「サリーはおもちゃを取るために、バスケットを探すでしょうか、それとも箱を探すでしょうか」。3歳くらいまでの子供はふつう、「箱を探す」と答える。自分が知っていることと、アンが知っていることの区別がつかないのである。つまり、自分の心と相手の心を区別して考えることができない。4歳をすぎると、次第に「バスケットを探す」と答えられるようになるそうだ。そして、人をだますことができるようになる。
大人の人間が相手の心を読む能力は、子供よりもさらに高度である。そして人間の「愛」は、このような高度な認知能力に支えられた利他的感情だ。そして人間関係、とくに親子や夫婦の関係は、このような「愛」によって強く結び付けられている。
ところが、「死」はこのような「愛」の対象を、この世から消し去ってしまう。その結果、大切な相手をいつまでも愛そうとする感情と、その相手が永遠に戻らないという現実の間で、私たちの「心」のプログラムは激しく混乱する。厳粛な葬儀とは、この混乱を収めるために、私たちの祖先が考え出した文化なのだと思う。そしてこの映画がとりあげている「納棺の儀」では、「納棺師」という第3者が手助けをして、死者には生前のような、いや生前以上に穏やかで美しい「表情」と「姿」が施される。そして、大切な相手を失った生者には、その「愛」を注ぐ最後の機会が与えられるのである。
経験をした人ならすぐにわかることだが、この最後の瞬間には、「生」のかけがえのなさ、そして「生者」を愛することの大切さを、圧倒的な力で感じさせられる。そのためでもあるだろう、このシーンは映画で幾度となく描かれてきた。しかし、その場に「納棺師」という存在があることを描いたのは、「おくりびと」が始めてである。
「納棺師」は死体を扱う職業であり、社会的にはしばしば偏見の対象ともなる。この映画の中でも、主人公の小林大悟本木雅弘)の新しい仕事が「納棺師」だと知って、妻の美香(広末涼子)が「けがらわしい」と叫ぶシーンがある。主人公も最初はこの職業に対して偏見を持っていた。物語は、二人が「納棺師」という仕事への偏見を捨てて成長し、二人の愛と、そして生まれてくる子供への愛を確かめ合うシーンで終わる。このラストシーンはすばらしい。いくつもの伏線が見事に結ばれ、未来への希望を描いて、さわやかに終わる。
「納棺師」を題材にしているので、もうすこし重苦しい映画だと想像していた。もちろん、軽い映画ではないが、観終わったあとには、心が洗われ、すがすがしい気持ちになれる。「ダークナイト」のように打ちのめされる映画ではない。
ウィキペディアの解説によれば、主演の本木雅弘が、青木新門著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、ぜひ映画化したいと考え、この作品が生まれたそうだ。青木新門宅を自ら訪れ、映画化の許可を得たあとも、映画化にいたるまでには紆余曲折があり、『おくりびと』というタイトルで、『納棺夫日記』とは全く別の作品として映画化された。この経緯の背景には、宗教観の違いなどデリケートな問題があるようだ。昨夜、上野の書店で青木新門著『納棺夫日記』を見つけたので、早速購入した。原作との違いについては、この本を読んで考えてみよう。