夕凪の街 桜の国

福岡は、今日が初演日である。仕事は相変わらず山積しているが、土曜日でもあるので、5時45分に研究室を出て、6時15分の回に駆けつけた。
月並みな表現だが、心洗われる名作である。こんなに豊かな、満ち足りた気持ちに包まれたのは、久しぶりである。
ストーリーはもちろんのこと、台詞やシーン・カットまで、原作にきわめて忠実に作られている。原作に対する監督のリスペクトに満ちた作品である。ここまで原作をなぞった映画は珍しいのではないだろうか。
それだけに、原作をこえていないという辛口の批評があるのも理解できる。何しろ原作は、たかだか100ページあまりの短さの中に、これ以上ないほどの濃さで皆実と七波、および二人につながる人たちの人生を描いている。巧みに作りこまれた構成の上に、漫画ならではの表現技法を駆使している。ストーリーや台詞などを忠実になぞっても、映画では描ききれない要素を原作は持っている。
それを承知のうえで、監督は原作に忠実にこの作品を作った。まさに直球勝負である。その直球は、私の心にしっかりと届いた。自宅に戻ってから、映画生活のレビューを見てみたら、いきなりトップランクに躍り出ていた。私だけでなく、多くの映画ファンにも、監督の投げた直球は、ストレートに届いたようだ。
監督は、球に力があるのは原作が良いからだと言うかも知れない。そういう監督の真面目さ、誠実さが、出演者のすばらしい演技を引き出したと思う。
この映画は、すべてのメジャー会社に配給を断られ、少ない制作費と、限られた撮影日数で作られた。そのため、映画の作りこみ方という点では、かなり安い。目のある人なら、その粗さがつい気になってしまうことだろう。
私の場合、撮影現場に植えられた植物に視線が向いてしまう。
たとえば、皆実がタンポポの葉をとって、野菜はこれよ、と打越に言うシーン。撮影現場に植えられたタンポポはまだ根付いていないので、葉は水切れをおこし、しなだれていた。撮影日数の制約上、植物がしっかりと根付いて、自然な状態になるまで待てなかったのだろう。
予算があれば、CGを駆使して映像の説得力を高めることができる。しかし、その予算もかなり制約されていた。
予算・撮影日数に制限がある場合、映画の命運を決めるのは脚本と演技である。この作品の場合、原作のストーリーは申し分ないので、要は出演者の演技が映画の出来を決定的に左右することになる。
その演技に関しては、ほぼ満点をつけたい。監督は、出演者に誇りを持って演じてほしいと言ったそうだが、監督の原作に対するリスペクトが出演者にもしっかりと伝わっており、どの出演者の演技も秀逸だった。良い意味で力の抜けた、自然で、しかも心の動きがしっかりと伝わる演技だった。
実は、田中麗奈の演技を少し心配していた。予告編での仏頂面は、原作の七波とかなり違うイメージだった。映画では、前半の麻生久美子の出来があまりに良いので、田中麗奈の演技がますます心配になった。しかし、田中麗奈は、現代を生きる女性としての元気の良さと、過去をひきづる暗さ、不機嫌さが同居した七波という難しい役をうまく演じていた。白眉は、被爆電車の中でのラストシーン。七波が皆実とその両親・妹の写真を見ながら、自分につながる3代の人たちの人生を思い涙する、原作にはないシーンである。表情のアップだけの、かなり長いシーンを、見事に演じていた。
監督は、原作のストーリーを忠実になぞっているが、いくつか変更している点がある。ひとつはこのラストシーン。もうひとつは、その前に置かれた、皆実が息をひきとるシーン。原作では、第一部桜の国の最後に相当するシーンが、第一部だけでなく、第二部の最後にも登場する。そして、皆実は、幸せだったと言って、息をひきとる。原作第一部と比べ、この描写は優しい。ノラネコさんは、登場人物が優しすぎると辛口のコメントを書かれている。
しかし、原作も第二部の描写は優しさに満ちている。その第二部のラストシーンの前に、第一部のラストシーンを回想として挿入することで、二つの物語をつないでいる。被爆で死に損なった皆実が、映画のシークエンスでは、第一部の最後で死なずに、第二部の、つまり映画の最後まで生きて、満たされた表情でこの世を去る。天に召された麻生久美子の表情は、安らぎに満ちている。田中麗奈演ずる七波がそのあとを引き取って、上記のラストシーンを演じるので、原作よりも映画のほうが、皆実と七波のつながりは緊密だ。以上のような原作からのリアレンジは、成功していると思う。
「皆美の最期にしても、暗黒に沈み込むような恐ろしさを感じさせる原作に対して、映画版は難病物のメロドラマみたいになってしまっている。 映画では彼女の内面の葛藤よりも、彼女を包み込む周囲の愛の強さの方が強調されていてテーマ性が薄いのだ」というノラネコさんの意見にはうなづける面もあるが、映像で葛藤をリアルに描くと、漫画と違ってどぎついものになってしまうのではないだろうか。こうの史代の独特の絵だからこそ表現できていた部分を無理に映像化しなかった監督の作り方に、私は共感する。
欲を言えば、少女時代の七波には、もうすこし活躍してほしかった。高校生から中年までを演じた伊崎充則にはびっくり。一方で、堺正章演じる老年の旭は、若い頃(伊崎充則)の体格との落差が大きくて、やや違和感があった。ただし、堺正章の演技自体は、原作の旭のイメージどおりのものだった。
これといって声高に何かを主張するわけではなく、3代にわたる家族の人生を静かに描くことで感動を生み出した原作の力は、映画でもいかんなく発揮されている。
確かにこの映画は、原作以上ではないかもしれない。しかし、この原作を、原作のイメージと感動を損なわずに映画化した監督の力を、私は賞賛したい。少しでも作り方を間違えれば、原作以下の映画になっただろう。
この映画は、佐々部監督による、原作のための、原作どおりの映画である。