ゲド戦記再見とポニョへの期待

今日は都内で会議に出て、午後に福岡に戻った。伊都キャンパスでミゾコウジュ移植地の草刈りをして、「市民の手による生物調査」チームの夜の観察会参加者に挨拶をしたあと、研究室に戻り、急ぎの依頼に対応した。いまは、地下鉄ホームで、電車待ち。
昨夜は、8時半すぎに都内のホテルにチェックインし、金曜ロードショーゲド戦記」を見た。「ゲド戦記」を見るのは、これで5回目になる。公開前後には、「ゲド戦記」に関して何回も記事を書いた。公開前には、酷評されることが確定している映画だと書いた(http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060709)。予想どおり、酷評された。しかし私は良い作品だと思ったので、積極的に褒めた記事を何度か書いた(http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060730http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060802http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060814など)。
今回、ひさしぶりに「ゲド戦記」を見て、やはり良い作品だと思った。ゴロウ監督は、この水準の作品を作り続けていけば、必ず報われるだろう。ハヤオファンのかなり多くは離れるかもしれないが、新たなゴロウファンを得ることができると思う。
ハヤオアニメは、一貫して生命への賛歌だった。ところがゴロウ版「ゲド戦記」では、主人公が父親を刺すという衝撃のシーンのあとに、「ゲド戦記」というタイトルが映る。冒頭から、ハヤオアニメの持ち味を殺してしまった。ハヤオアニメのやさしさに癒されてきた往年のハヤオファンの中には、心の中で悲鳴をあげた人もいたかもしれない。
しかし、ゴロウはゴロウであって、ハヤオではない。親子であり、キャラクターの絵柄はそっくりでも、別の人格を持った人間である。ゴロウ監督の映画に、ハヤオ監督作品と同じものを求めるのは、無理というものだ。
私がゴロウ監督の立場なら、ハヤオアニメとは違う方向性をめざすだろう。そしてゴロウ監督ははっきりと違う方向性をめざした。ゴロウ監督のチャレンジは往年のファンからの反発も招いた。しかし、反発をおそれていては、新しいものは作れない。
作品評については、公開当時に何度も書いた。今回の再見でも、評価はほとんど変わらなかった。5回目に見てとくに印象に残ったのは、アレンの光である影がテルーに「まことの名」をつたえ、テルーが告げる「まことの名」を手がかりに、アレンが光を取り戻すというシークエンス。原作では、過ちから影を呼び出してしまった若きゲドが、影に追われる旅の末に、影と対峙して自我を確立する。これに対して、ゴロウ版「ゲド戦記」では、「影」は実は体からおいてきぼりにされた「光」であるという新しい設定を与えられている。そして、アレンを受け入れた少女テルーの力を借りて、アレンは「光」を取り戻す。
原作の力強い自立シーンが好きな人には、ゴロウ版「ゲド戦記」の上記のシークエンスは軟弱に思えるかもしれない。しかし、大賢人や王の若き日の自立を描いた原作とは別に、等身大の主人公の自立を描いたゴロウ版「ゲド戦記」に、私はとても共感できた。
ゴロウ監督には作品を通じて伝えたいテーマがはっきりとある。そして、そのテーマにふさわしい作品の世界とシナリオを作り出すことに成功していると思う。
ただし、頭をからっぽにして、ワクワクドキドキしながら見る映画ではない。そういう映画しか受けつけない人には、酷評されても仕方がないだろう。
ちなみに先日、インディジョーンズ第4作を見たのだが、第1作を見たときのあの興奮はまったく味わえなかった。鉄砲があたらないとか、滝つぼに落ちても死なないのはご愛嬌だ。しかし、放射能をたわしでこすって落とすのにはずっこけた。そもそも、娯楽映画のスリルの材料に核爆発を使う無神経さにあきれた。娯楽だけを追求した映画のひとつの結末を見た思いがした。
さて、もうすぐ「崖の上のポニョ」が公開される。ハヤオ監督の作品である。宣伝のコピーは、「生きていて良かった」。息子の「ゲド戦記」へのアンチテーゼである。「ゲド戦記」に大いなる不満を抱いた老大家が、どんな作品を生み出したか、興味津々である。
ハウルの動く城」は、動く城の造形を除けば、不満の残る作品だった。何よりも、「ゲド戦記」と違って、何を言いたいのか、よくわからない映画だった。すでに十分な成功を収めたハヤオ監督の、新たな創作への迷いのようなものを感じた。
崖の上のポニョ」のテーマは「生きていて良かった」。今回は、迷いのない作品に仕上がっている予感がする。