アニメ「ゲド戦記」再論

蝸牛の歩み」さんから、トラックバックをいただいた。私のブログを、鑑賞前の参考にしていただいたとのこと。Yahoo Movieなどでは「酷評」がほぼ半数をしめている状況なので、私は積極的に「擁護派」のコメントを書いてきた。私のコメントが、この作品を冷静に見るうえで役立つところがあれば、幸いである。トラックバックが嬉しかったので、今日は「ゲド戦記」について、もう少し書いてみよう。
アニメ「ゲド戦記」への「酷評」には、納得のいく批判的評価も含まれているが、かなりの部分は、作品以外の部分への反発にもとづく、パッシングだと思う。
ジブリそのものへの反発、鈴木プロデューサーのやり方への反発、世襲・親の七光りへの反発、大量宣伝への反発、吾郎監督の「生意気な発言」への反発、などなど。
これらは、作品そのものへの評価とは別次元の話なので、無視したい。
もっと納得がいく批判は、躍動感がない、登場人物に感情移入できない、というものである。これらは、吾郎監督が提示した、これまでのハヤオアニメへのアンチテーゼに対する反発だ。この点で評価が分かれるのは、仕方がない。renkonnさんが指摘されているように、「ゲド戦記」は、ハヤオアニメよりもむしろ高畑アニメの作風を受け継いでいる面がある。吾郎監督は、3月14日の監督日誌でこう書いている(renkonnさんがすでに気付いてリンクされている)

宮崎作品では、カメラは主人公にくっついて
観客も一緒に世界に入って(いく)ように演出する傾向があるのに対して、
高畑監督のカメラは、一歩引いた視線で世界をとらえています。

吾郎監督が意図して高畑流を選んだのか、それともゲド戦記の世界を表現しようとして、結果として「一歩引いた視線」を選んだのかはわからない。
いずれにせよ、この「一歩引いた視線」が、躍動感がない、登場人物に感情移入できない、という評価を招いていることは確かだろう。キャラクターデザインがハヤオアニメそっくりであり、さまざまなシーンにハヤオアニメのオマージュが描かれているだけに、がっかりしたジブリファンは少なくないと思う。
私は、ゲド戦記の世界を表現する手法として、「一歩引いた視線」がとても良かったと思う。この手法は、原作者の表現哲学に沿ったものでもある。原作者は、生理的にドキドキさせる映像表現を徹底して嫌っている。
しかし、好き嫌いは分かれるだろう。それは仕方がない。
「蝸牛の歩み」さんが指摘されている点の説明不足は、私もこの作品の不完全な点だと思う。この点で、吾郎監督は力量不足だという意見には、うなずけるものがある。もっとも、テルーの正体や世界の行く末については、観客が自由な想像力で補えば良いことであり、ファンタジーとは、そもそも、そういうものではないかとも思う。
私はこの作品を名作だと評価しているが、一点だけ、どうしても腑に落ちないところがあり、100点はつけられないと思っている。この点については、ネタバレ抜きには書けないので、興行が済んだころにまた書いてみようと思っていた。
ところが、私が気にしていたことを、ずばりと指摘したブログを見つけてしまった。

まだ映画を見ていない人は、鑑賞前には、このブログを絶対に読まないほうが良い。読めば、中立的に映画を見ることはできなくなるだろう。
それほど本質的な批評が書かれている。提起されているのは、原作や原作者の評価にもかかわる、非常に深い問題である。
原作者は、二元論を克服しようと悪戦苦闘し続けた。私には、原作者がこの問いに、明快な答えを見出したようには思えない。フロイド心理学、道教弁証法など、さまざまな思想・哲学を援用して、二元論を克服しようとしながら、結局は原作者自身が二元論を克服できなかったのではないだろうか。
そして、アニメ「ゲド戦記」もまた、二元論を克服しようとしながら、肝心なところで、それができなかったのではないだろうか。
では、ハヤオアニメが描いてきた「心地よさ」が真実を描いているかと言われれば、それもまた疑問である。
吾郎監督の描き方は、一つの解である。まずはその描き方を見たうえで、「雑魚キャラに愛をこめて」さんの指摘について、考えてみるのが良いと思う。
答のない問題なので、先入観は持たないほうが良い。
このような問題を提起している点も含めて、アニメ「ゲド戦記」は、見る価値のある作品である。
ハンパな出来では絶対に許されない、言い逃れできない全ての責任を背負わされた」立場で、安易な娯楽性追求志向に陥らずに、これだけ評価が分かれる話題作を作ったことは、賞賛に値すると思う。