ル・グウィンの言葉(2)私はそんなに簡単な答えを出してはいない
原作者ル・グウィンのウェブサイトに、アニメ「ゲド戦記」評が掲載された。内容は、なかなか厳しいものだ。吾郎監督は、「言い逃れのできない全ての責任」を背負っていかねばならない。しかし、この作品を監督した以上、その責任からは逃げられない。
以下は抄訳。
美しくはあるが、「トトロ」の繊細さや、「千と千尋」の豊かさにはかなわない。
エキサイティングではあるが、暴力的な興奮は私の本の精神に相いれない。
登場人物の名前は同じだが、性格も、おいたちも、運命も違うので、整合性がない。
映画は異なる表現方法なので、大きな変更がやむをえないのだろうが、小説と同じ名前を使う以上、もうすこし原作に忠実であってほしい。
メッセージが説教くさい。たしかに、1−3巻にはそういう部分もあるが、これほど露骨じゃない。
アレンが父親を殺す動機が、わからない。なぜ二つに分かれたかも分からない。われわれの内なる闇は、魔法の剣を抜くことで消し去れるものではない。
映画では、evilが実体化され、殺されることで全てが解決しているが、私はそんなに簡単な答えを出してはいない。
羽根を折りたたんだ吾郎の竜は描写は賞賛に値する。馬の耳も良かった。畑を耕したり、水を汲んだり、馬や羊の世話をしたりするシーンなどは、とっても好きだ。アクションの連続ではなく、静かなペースに変えたのは賢明だった。少なくともそこに、私は、私のアースシーを感じた。
彼女がgoodと評価したのは、自然描写や生活描写だった。なるほどと思う。
「われわれの内なる闇は、魔法の剣を抜くことで消し去れるものではない」「evilが実体化され、殺されることで全てが解決しているが、私はそんなに簡単な答えを出してはいない」の部分は、「雑魚キャラに愛をこめて」さんの指摘に関係する部分だ。原作者は納得しないだろうと思っていたが、やはり。
原作者の評価を聞いても、私のアニメ「ゲド戦記」への評価は変わらないが、原作者ががっかりしているのは、残念だ。
原作者は、自分の著作に非常に純粋な思いを持っているから、もっと丁寧な対応が必要だったと思う。この点に関しては、交渉にあたった鈴木プロデューサーとハヤオ監督の責任が大きい。
ほっとする点では、ウェブサイトのページの最後に、こんなノートがついている。
Ged's warm, dark tone was particularly fine. And I hope the lovely song Therru sings is kept in its original form when the film is dubbed.
自分の考えと違う点には、はっきりと意見を言うが、良いところは良いと認める。欧米の人と議論をすると、この姿勢がしっかり貫かれているので、気持ちが良い。吾郎監督は、自分がなぜ、どのように考えてリアレンジをしたかを、原作者に伝えたほうが良い。日本人はしばしば、理由を言わずに謝るが、このやり方は国際的には通用しない。
テレビ版の契約の関係で、アニメ「ゲド戦記」は2009年までは合衆国で公開できないそうだ。この点に関して、「ああ、なんてイジワル!」とも書かれている。
8/15追記(1):吾郎監督は、原作の意図を汲もうとしたなどとは決して言わないほうが良い。自分が原作から得たものをもとに、another story を作りたかった、と言うべきだ。実際、アニメ「ゲド戦記」は、原作とはまったく別の作品であり、だから価値がある。another story を作ることに関して、事前の了解が不十分だった点が今回の不始末の原因である。この点は謝罪すべきだ。
8/15追記(2):ル・グウィンさんのコメントの全訳を掲載しているサイトがある。もちろんこの行為は、著作権法違反である。私は、自分の見解を述べるために必要な「抄訳」を、原点を明記して掲載したが、これは著作権法で許される「言及」「引用」の範囲と考えている。ゲドの声やテルーの歌に関するコメントは、要約せずにそのまま引用したかったので、訳さなかった。aglさんのコメントのように、一部の文章の訳がよくわかならいから教えてほしいという質問に対して、意味やニュアンスを正確に伝える訳例を紹介するのは、作品全体の訳ではないので、著作権法にはふれないはずである。どこまでが許容範囲かについて明確な線引きはないが、良識を持って判断すればわかるだろう。