パンズ・ラビリンス−現実世界と仮想世界が交錯する不思議で残酷な物語

シンガポール航空の機内映画メニューは充実している。しかし、福岡→シンガポール→ケープ、と長旅をして、その帰路ともなると、主だった邦画・洋画はひととおり見てしまい、少し違った映画が見たくなった。「パンズ・ラビリンス」には、英語とスペイン語のタイトルがついていたので、興味を持ってチャンネルを選んでみた。
スペイン語に英語の字幕で見たが、片言のスペイン語は理解できるので、字幕なしの英語の映画よりもよほど理解は容易だった。
地底の異世界のプリンセスが、地上に出たまま記憶をなくし、その魂が地上をさまよっている。地底の異世界では、そのプリンセスの帰還を待ちわびている、というような説明で映画が始まったときには、ファンタジー映画かと思った。
ところが場面は、スペイン内戦後の現実世界に移る。山地に潜伏するレジスタンス部隊を制圧することに執念を燃やすファシストの大尉が登場する。その大尉のもとに嫁いできた女性が連れている娘オフィーリアが、この映画の主人公である。オフィーリアは、異世界のプリンセスの魂を宿している。オフィーリアは、異世界の牧神(パン)に導かれて、プリンセスに戻るための試練に立ち向かう。一方で、現実世界では、レジスタンス部隊と大尉の部隊の間での血で血を洗う争いが展開し、オフィーリアもこの争いに巻き込まれていく。パラレルワールドでの二つの物語が、オフィーリアというひとりの人物を介してからみあう。
火の鳥太陽編を連想してみた。火の鳥太陽編では、異なる時代の物語が同時平行で展開する。これに対して、「パンズ・ラビリンス」では、同じ時間軸を流れる二つの物語が、オフィーリアという接点を持ちながら展開していく。似ているようで、まったく異なる創作世界である。
現実世界と異世界が接しているという点では、むしろ火の鳥異形編と似ているかもしれない。しかし、輪廻という思想はこの作品にはまったくない。
異形の牧神(パン)が棲む世界は、オフィーリアの空想世界なのだろう。しかし、この映画の中では、血なまぐさい争いが展開される現実世界以上に、リアリティのある世界として描かれている。それは決して、アリス的なおとぎの世界ではなく、現実世界以上に危険にみちた仮想現実だ。この映画のすごいところは、想像力が持つ現実以上の説得力を、見事に映像化した点にあると思う。
とにかく、これまで見たことのない、独自の映像世界を構築している。
監督がメキシコの人だということを、後になって知り、少し納得がいった。
メキシコにしばらく滞在してみればわかることだが、市内のあちこちに「壁画」があり、そこにはケツアコアトルの時代からの精神世界が脈々と生きている。「想像力」が欠如したアメリカ社会とは異質である。
実は、日本人も合衆国にはない精神世界を比較的最近まで保ち続けてきた国民だと思う。たとえばそれは、宮崎アニメの底流にもある。
ただし、宮崎アニメは、決して「死」を描かない。「死」を冒頭から描いた「ゲド戦記」は、往年の宮崎アニメファンから猛反発をくらった。
一方で、「パンズ・ラビリンス」には、「死」がたっぷりと描かれている。
だから、この映画を観る人は、覚悟したほうが良い。この映画に、現世的な救いはまったくない。
何しろ、舞台は「内戦」後のスペインである。世界各国から集った義勇軍が敗走し、ファシズムが勝利し、フランコ独裁政権は1970年代まで続いた。
そんな時代に生きた少女が空想した世界が持つ力を通じて、人間の想像力の重みを描きあげた映画だと思う。
その意味では、これはやはりファンタジー映画なのかもしれない。
しかし、その存在感は、圧倒的に重い。仮想世界をこれほどの重量感をもって描いた映画を始めてみた。この映画は、これまでに観た多くの映画とは、別格である。