アニメ「死者の書」

日本には、「宮崎アニメ」とは異なる、もうひとつのアニメーションの伝統がある。「川本アニメ」、すなわち川本喜八郎監督の人形アニメである。NHK人形アニメ三国志」を見て、人形アニメの面白さを知った人は、かなりいることと思う。しかし、「宮崎アニメ」と違って、「川本アニメ」は一貫してマイナーであった。川本監督は、娯楽性を求めず、自分の創作世界を作り上げることに力を注いできた。その結果、アニメファンと称する人たちの中ですら、「川本アニメ」の存在はあまり知られていないのではないかと思う。残念なことだ。
その川本監督が、折口信夫の「死者の書」をアニメ化した。発案したのが1976年だというから、30年間もかけて構想を練り、準備を進め、完成させたことになる。「死者の書」は、死生観を扱った難解な小説だ。そのテーマは「ゲド戦記」に通じるところがある。
アニメ「ゲド戦記」を見て、二元論的世界観をこえる描写の難しさを感じていたので、川本アニメ「死者の書」で生と死がどのように描かれているか、大いに興味を引かれた。
幸い、福岡版「岩波ホール」と言うべき「シネ・バヴェリア」で、9月前半に上映されることになった。野外実習を終えた後、日曜日の夜に観てきた。観客は私を含め、5名。アニメ「ゲド戦記」の賑わいとは対照的だった。
アニメ「死者の書」は上映時間が1時間半ほどの作品だが、まず冒頭の15分ほどを使って、舞台となる奈良の當麻寺二上山の風景が実写で紹介され、仏教が渡来し、神仏混合が行われた時代背景が説明された。當麻寺の行事として紹介された仮面の行列は、大学院時代にタイ北部の田舎町で見た祭りを思い出させるものだった。また、主要な登場人物(南家郎女のモデルとなった中将姫・大津皇子など)の家系図が示され、中将姫にまつわる當麻寺曼荼羅伝説や、持統天皇の策略で大津皇子が処刑された経緯などがていねいに説明された。
アニメ「ゲド戦記」の冒頭とは異なり、観るものを作品世界の時間・空間に、ゆったりと誘ってくれた。このような描き方を観ると、やはり吾郎監督は若いなと感じた。アニメ「ゲド戦記」の魅力のひとつは、その若さゆえのストレートな描写にあるのだが、アニメ「死者の書」の冒頭部分を見て、ゆったりとした描写の心地よさを感じた。3年間で若い監督が作った映画と、30年間かけて老大家が作った映画の違いである。私はどちらも好きであるが、80歳にしてなお創作意欲の衰えを感じさせない川本監督の迫力には、感服する。
さて、それだけゆっくりと説明されれば、作品世界を理解するのは容易かと思えば、とんでもない。観終わった直後の感想は、幻想的な夢から醒めたときのようだった。あのシーンは、いったいどういう意味だったのだろう、あの言葉はいったい何を物語っていたのだろう、あの涙はいったい誰のために流されたのだろう。考えても容易には答えが得られない謎ばかりである。
それでも、アニメ「死者の書」は、まぎれもない傑作である。点数をつけろと言われれば、ためらいなく100点をつける。確かに、一般受けはしないかもしれないが、その点以外に、非のうちどころがない。
物語の骨格は、2人の主人公の対峙である。信仰心の厚い、まっすぐな、純粋な心のヒロイン、藤原南家の郎女(いらつめ)は、写経をしているうちに、二上山に浮かび上がる神々しい面影を見る。それは、50年の時を経てこの世にさまよい出た大津皇子の亡霊だった。大津皇子の魂は、処刑前に一目見た耳面刀自(みみものとじ)の美しい姿が忘れられずに、亡霊として世をさまよい、郎女を耳面刀自と勘違いして、祟ろうとする。もっと具体的に言えば、「耳面刀自、おれには子がない、子を生んでくれ、おれの名を語り伝える子どもを」と言って、郎女に迫ろうとする。
一方の郎女は、大津皇子の亡霊に神を見る。郎女は、當麻の語部にこうたずねる。
「そこの人、もの聞こう。大津皇子さまという方は昔の罪人らしいのに、何で姫の前に現れては、神々しく見えるのであろうぞ」
當麻の語部の答えはこうである。
「神代の天若日子も天の神々に弓引いた罪ある神。世々藤原の一の媛に祟る大津皇子さまも、顔清く、声美しい天若日子のひとりでおざりまする。お心つけられませ。」
このセリフによって、神と人と、亡霊と仏とが、渾然一体となった世界が語られたのだと思う。古代日本の精神が依拠していたのは、多元論的な世界観であり、そこでは生と死は必ずしも対立するものではなく、神と亡霊すらも、渾然としていた。このような精神性の中に、仏教が取り入れられたが、日本人は決して神を捨てなかった。
このような精神世界の中で、まっすぐな心を持つ郎女は、大津皇子の亡霊に対して、いとおしい気持ちを抱いてしまう。そして、仏教の信仰に厚い郎女は、いとおしい気持ちをこめて、念仏を唱える。
「なも阿弥陀ほとけ、あなとうと、阿弥陀ほとけ、のうのう、阿弥陀ほとけ・・・」
大津皇子の亡霊は、念仏を唱える郎女には近づけない。お互いに、いとおしい気持ちを高ぶらせながら、決して交わることのない関係がそこに描かれていた。
この二人の関係が、どのような結末を迎えるかは、伏せておこう。最後に郎女は、ひとすじの涙を流して、光の中に消える。郎女は死んだのだろうか。大津皇子の魂は成仏したのだろうか。何も語られない。すべては、観るものの解釈に委ねられている。
この映画を観て、二元論の克服というテーマがどうでもよくなってしまった。二元論を前提にするから、それを克服しなければならないのである。最初から多元的な世界観を前提にすれば、「二元論の克服」というテーマ自体が、その立脚点を失ってしまう。
ゲド戦記」の原作者がこの映画を観たら、いったいどんな感想を持つだろう。
パンフレットの冒頭に、「永遠の名画座」と題して、赤川次郎が寄稿している。彼は、このエッセイの最後に、こう語っている。

今、映画は少し「分かりやすくなり過ぎて」いるのではないか。
一回見て分からなければ、「つまらない」とそっぽを向く観客は、本当の宝を指の間から取りこぼして気付かないのだ。
死者の書」は、汲めども尽きぬ、溢れるばかりのイマジネーションの宝庫である。
その意味では、私たち、観る側こそが試される作品だと言えるかもしれない。
「宮崎アニメ」だけがアニメーションだと思っている人は、この作品の中に全く未知の興奮を見出すことになる。

まったく、同感である。
ところで、このエッセイで、赤川次郎の父が、あの「白蛇伝」のプロデューサーだったことを初めて知った。「白蛇伝」に引き寄せられて東映動画に集ったのが、宮崎駿であり、高畑勲だった。ちなみに、高畑勲監督は、「死者の書」オフィシャルサイト(下記参照)に掲載されている制作日誌の第2回に登場されている。
この作品の上映館は一桁。上映館が少ないとファンが嘆いている「時をかける少女」に遠く及ばない。心から日本アニメを愛するなら、ぜひ観ておきたい作品だ。
この作品の評価が高まり、もっと多くの人の目にふれることを、心から願う。

川本喜八郎「死者の書」オフィシャルサイト

  • 人形の魅力が垣間見れる。生と死が渾然とした「死者の書」の世界を描くには、人形アニメという表現手段がまさしく正解だったと思う。

松岡正剛の千夜千冊第百四十三夜

  • 愛読している書評サイトのひとつだが、難解であることで有名な原作をこれほど見事に読み解いた書評を他に知らない。冒頭で紹介されている

「した した した。
 こう こう こう。こう こう こう。」
という魅惑的な表現は、アニメ中でも効果的に使われている。