アニメ「ゲド戦記」:最後の評価
3回目を見てきた。
私のこの作品への評価はほぼ固まっているが(1回目の感想、2回目の感想)、いくつか確認したいことがあった。ひとつは、クモを闇に返すときのテルーの表情と口調。もうひとつは、アレンが国に帰る決意を語るときの表情と口調。いずれも、この映画をしめくくる重要なシーンだが、2回見た記憶をたどってみても、自分の解釈に確信がもてなかった。これらの重要なシーンで、あいまいな印象を残してしまっている点で、この作品は多くの人を納得させる力を欠いているのだと思う。
しかし私は、このようなあいまいさを残した表現が、嫌いではない。作者の控えめな表現の意図を、後になってよく考えてみる楽しみがある。すべてを明快に語りつくした作品では、このような味わい方はできない。本でも、一度読めば十分な作品と、何回も読み返したくなる作品がある。私にとって、アニメ「ゲド戦記」は後者である。
「あいまいさを残した表現」という点では、国王がアレンの殺気を感じて、「まさかな」とつぶやくシーンも、印象に残っている。このシーンで、国王は明らかに殺気を感じたのだが、「アレンが闇にひそんで殺気を発するはずがない」と考えたのだろう。闇に背を向けてしまう。このシーンは、国王が父親としてアレンを認めていないことを、隠喩的に描いている。その後、短刀を持って迫るアレンに対して、国王はただ驚くだけで、身をかわしてアレンと対峙することができなかった。もし国王がアレンを一人前と認めて、対峙していれば、アレンの心は救われただろう。アレンがなぜ国王を刺したのかがわからないというコメントが多いが、私にはその理由はよく理解できた。自分を受け入れてくれる存在がないことへの苛立ちから、アレンの精神は暴走したのである。
クモの城で、アレンはふたたび剣で「父親」を刺す。こんどの「父親」は、アレンを受け入れる存在、すなわちゲドである。このシーンは、明らかに国王を刺すシーンを想起させるように描かれている。一瞬刺されたかに見えたゲドは、国王とは違って、たくみに身をかわしていた。アレンの剣はゲドの腕と脇腹の間を抜けていたのである。そしてアレンはしっかりとゲドに抱かれた。ゲドに力強く受け入れられたことによって、アレンが自立する礎が築かれた。
「まさかな」という言葉は、映画のなかでもういちど使われる。ゲドがはじめてテルーと向かい合ったときに語るこの言葉は、その時点では意味がわからない。しかし、国王の「まさかな」という言葉を想起させることによって、ゲドがテルーの中に、何か圧倒的な力を感じたことを描いている。
テルーの中の「圧倒的な力」は、クモに命を奪われることによって、開放された。3回目を見てようやく得心がいったが、テルーは明らかにクモに殺されたのである。しかし、テルーは竜の命を宿す者として、蘇った。クモが求めた永遠の命がそこにあった。クモは、「永遠の命だ・・・」とつぶやいて、テルーに近づく。テルーの目は赤く輝き、体は光につつまれる。
次のシーンでのテルーの表情と口調を確認することが、今日の最大の目的だった。テルーの表情は、決意に満ちていたが、穏やかだった。決してそこに怒りはなかった。そして、「影は闇に帰れ」というセリフは、しっかりと、しかし静かに語られた。やがてテルーをつつむ光の中から竜の翼があらわれ、テルーは竜へと変化する。そして、熱い吐息(炎ではない)をやわらかく吐き、クモは炎に包まれ、死を迎える。
原作者は、この結末に関して、次のように述べている。
But in the film, evil has been comfortably externalized in a villain, the wizard Kumo/Cob, who can simply be killed, thus solving all problems.
In modern fantasy (literary or governmental), killing people is the usual solution to the so-called war between good and evil. My books are not conceived in terms of such a war, and offer no simple answers to simplistic questions.
原作者にこのように解釈される描き方をした点は、吾郎監督の未熟さなのかもしれない。しかし少なくとも私には、吾郎監督の描き方が、「善と悪の戦い」という単純な問題をたて、その問題に対して、「死」という単純な答を与えたようには見えなかった。
アレンはクモに対して、「クモ、お前は僕と同じだ」「死を拒んで、生を手放そうとしているんだ」「目を覚ませクモ。怖いのはみんな同じなんだ」と語りかけた。ここで描かれているクモは、決して、単なる「externalized evil」ではない。「evil」(悪)というよりも、死を恐れる存在として描かれている。ここで問われているのは、善と悪の二元論ではなく、死に対する態度であり、それはまさに、原作第3巻のテーマである。
原作者はまた、「The darkness within us can't be done away with by swinging a magic sword」とも述べている。このコメントは、アレンが魔法剣を抜いたシーンに対するものと思う。アレンは魔法剣を抜くことで、クモの呪縛を断ち切ることはできたが、クモを倒して闇を払ったわけではない。アレンにとって、クモはついしばらく前までの自分の姿であり、決して滅ぼすべき相手ではない。だから、「目を覚ませ」と呼びかけた。
原作では、アレンは激しい憎悪と怒りに燃えて、クモを斬りつける。クモは脳天を真っ二つにされ、顔を血だらけにして倒れる。それでもアレンは攻撃をやめない。しかし、クモはすでに死者なので、なんど斬りつけられても決して死なない。このぞっとする描写によって、著者は未熟なアレンの心の闇を描いている。このシーンに続いて、ゲドは、太古の言葉を使ってクモを解放する。解放されたクモは、黄泉の国の死の川を下り、姿を消す。
原作と違い、ラストシーンのアレンは、他者を受け入れて生きる意志を獲得した存在であり、父親を殺したことに象徴される心の闇を、自立した自我が受け入れた存在として描かれている。クモの中に自分の心の闇を見ているので、クモの呪縛を払うことはできても、クモを倒すことはできない。
原作のゲドの役割をにない、クモを解放するのは、テルーである。テルーは、クモの命を奪うことによって、死におびえるクモの心を解放する。しかし、炎につつまれて崩れ落ちるクモは、原作者には「善と悪の戦い」の敗者として、単純な死を与えられたように見えたのだろう。少なくとも、「太古の言葉」を使って魂を解放するのではなく、炎という「暴力的な」手段によって命を奪った点に関しては、映画の描き方は原作者のそれとはまったく違う。この点に原作者が納得できないのは、当然だと思う。
しかし、仏教的な考え方に慣れ親しんでいるわれわれにとって、死は「成仏」であり、苦しみからの救済である。むしろ、死の川を下った永遠の闇の中で、死者として生き続けることのほうが、残酷に思える。
また、原作は第5巻において、黄泉の国と生者の世界を分かつ石垣を壊してしまう。原作中のゲドが、魔法の力を使い果たして守りきった壁が、最後に壊されてしまう結末は、とても難解である。この結末を知っている吾郎監督が、映画化にあたって第3巻の原作どおりの結末を採用しなかったことは、理解できる。
映画のラストシーンのクモは、醜い。小さな子供が怖がって泣いたという話を聞く。ここまで醜く描く必要があったのかと思われるほど、醜い。しかし、原作を読み返してみると、原作のクモの最後も、ぞっとするほど醜かった。
さて、ラストシーンでテルーは、クモに対して「影は闇に帰れ」と静かに告げる。口調は静かで良かったが、このセリフ自体には、納得がいかない。クモは、すでに老い果てており、本来は死んでいるはずだが、魔法の力によって死ぬことを拒み続けている。そのクモの魂を解放するのだから、「闇に帰れ」と言わせてはいけないと思う。「死を受け入れよ」という意味で、「闇に帰れ」と言わせたのだろうが、この言葉には、善悪二元論的なニュアンスが感じられる。原作者が上記のような感想を述べた主要な理由は、このあたりにあるのかもしれない。
テルーは、クモによって命を奪われることで、竜としての使命に目覚めた。その使命は、映画の中では語られない。説明不足だと批判する人が多いが、私はこの終わり方に共感した。クモが死んだだけで、世界の均衡は回復していない。クモは、人間の限りない欲望こそが、世界の均衡を乱していると主張していた。したがって、クモが死んでも、世界の均衡は回復していない。その回復は、アレンやテルーの(そしてわれわれの)これからの努力に委ねられている。竜の群れが穏やかに飛ぶ平和なシーンは、アレンとテルーの自立がもたらす希望を象徴的に描いているのだと思う。
竜の姿に変化したテルーを、アレンは「テハヌー」というまことの名で呼んで、受け入れる。草原に降り立ち、羽を折りたたんだテルーを、アレンが迎えるシーンは美しい。戸惑い気味に首を差し出したテルーに対して、アレンは口を抱いて接吻で応え、テルーはそっと目を閉じる。原作者が、「I admire the noble way Goro's dragons fold their wings」と賞賛したシーンである。
アレンは、「僕は償いのために国に帰るよ、自分を受け入れるためにも」、と語る。その表情と口調には、深い決意が感じられた。国に帰れば大罪人である。戻れる望みはないかもしれない。それでも、テルーに、「いつか。、また会いに来ても良いかな」、と聞くシーンは切ない。このシーンの描写は決して軽々しくはなかったが、見方によっては軽く見えてしまうだろう。このあたりの描写力は、未熟なのかもしれない。しかし、大げさな感情表現をすれば、意図が伝わるとも限らない。むつかしいところだ。
3回見ても、決して退屈しなかった。数日間の集中的な精神労働と寝不足のあとで、福岡空港に降り立ち、睡魔におそわれながら映画館に足を運んだが、最後まで楽しめた。しかし、私のブログを読んで見に行ったが、退屈したという人もいるので、この映画の評価は、大きく分かれるものなのだろう。
原作者が「I wonder at the disrespect shown not only to the books but to their readers」と語っているのは残念なことだが、原作ファンの一人として、私はこの作品が、原作や読者に対する「disrespect」だとは、どうしても思えない。確かに、原作を大幅に改変している。というより、アニメ「ゲド戦記」は、原作にinspireされて作られたanother storyである。私は、この作り方を支持する。
もし、原作どおりのシナリオでアニメ化が行われたなら、私のイマジネーションの中にある原作の世界は、映像によって無残に上書きされてしまっただろう。映像の持つ力はすさまじい。暴力的ですらある。幸い、アニメ「ゲド戦記」はanother storyであったが故に、私のイマジネーションの中で原作と共存することができた。
数日前に、「Art of Tales from Earthsea」(徳間書店、ISBN:419810011X)を入手した。この本によれば、当初は第一巻のシナリオどおりのアニメ化が検討されたようだ。吾郎監督による、若き日のゲドのラフスケッチが掲載されている。このスケッチの人物は、りりしすぎる。私のイマジネーションの中にある若き日のゲドとは、大きく異なる。こんなゲドが映画の中で原作のシナリオに沿って動くのは、認めがたい。
また、次の段階では、第3巻のシナリオどおりのアニメ化が検討された。いかだ族の少女アジサシのラフスケッチもある。いかだ族のシーンは、見てみたかった気がする。しかし、黄泉の国や、そこでのクモとの対決シーン、死の山をこえて帰還するシーンのラフスケッチは、私のイマジネーションの中の世界と、大きく異なっていた。
原作をできるだけ変えないでほしいという原作者の気持ちは理解できる。しかし、そう望むなら、映画化は認めないでほしい。原作のシナリオどおりの映画化ほど、読者のイマジネーションの世界にある豊かさを壊すものはないだろう。原作のモチーフやセッティングや雰囲気を生かしながら、another storyを作ってくれるほうが、私にはうれしい。吾郎監督のanother storyは、原作に対するrespectに満ちた作品だと私は思った。
結果として生じた原作者との緊張は、悲しいことだが、仕方のないことだろう。
「Art of Tales from Earthsea」に収録された絵を見ると、背景は絵画として本当に美しい。動いていない夕陽のシーンなどは、これまでのハヤオアニメよりもはるかに美しいと思う。しかし、絵画としての雲がそのまま動くと、これまでのハヤオアニメを見慣れた感覚からすると、確かに雑な印象も受けた。吾郎監督の「新古典主義」的手法は、まだ発展途上なのだろう。
上映は第4週目を向かえ、もう客足は遠のいているだろうと思っていたが、客の入りは予想以上に多かった。客席の半分程度は埋まっていた。酷評されているのを承知のうえで見に来ている客が多いせいか、最後までみんな映画に集中していた。
ようやく私の中で、アニメ「ゲド戦記」に関する決着がついた。