ゲド戦記を2回見て(2)

ゲド戦記」について、「renkonnの日記」さんが、とても深い洞察を書かれている。

昨日のエントリーで、ナウシカラピュタの名シーンは、高畑監督が居たが故の「輝き」であり、二人の別離以降、「二つに割れた環」と言える作品がジブリに続いているのかも知れない、と書かれていて、思わず唸った。
「ポスト駿監督」というよりは「ポスト高畑監督」と言う方がしっくり来る・・・なるほど、そうかもしれない。しかし、吾郎監督としては、どちらと比べられるのも、イヤだろう。
きっと、自分は自分なのだという思いがあるに違いない。今回の作品で、私は吾郎監督の、野心的なプライドを感じた。「オタク」を登場させなかったのも、「父親殺し」という衝撃的な事件から物語を始めたのも、自分の作品を作りたいという、クリエーターとしての渇望につき動かされた決断だったのだと思う。
さて、ここから先は、ストーリー設定の独自性について書くので、ネタバレを含めざるを得ない。
「renkonnの日記」さんが30日のエントリーで書かれているように、「影」が実は「光」であるという設定をしたのは、実に創造的な仕事である。原作の思想を汲み取りながら、ある意味で原作をこえている。さらに、「光」を心に宿したテルーの助けを借りて、他者とともに生きる自我を確立するというストーリーは、すばらしい。
このストーリーのクライマックスで、絶体絶命の危機に立つゲドが、テナーに対して静かにこう語たる。
「耳を済ませてごらん、希望が近づいてくる」
(ゲドがもっともかっこよく見えるシーンだ)
ここで、ヒーロー・ヒロインの登場となるわけだが、登場する二人はいささか頼りない。パズー・シータの力強さがない。ハヤオアニメに馴染んだ感覚で見ると、なんだ、これは、と思ってしまう。
しかし、2回目にみると、この静かな登場シーンが、なかなか良い。
そのあとの、剣を抜くシーンの良さについては、「renkonnの日記」さんが、すでに書かれている。光を取り戻し、他者とともに生きる自我を確立する主人公が、見事に描かれている。このシーンで、吾郎監督が主人公に自分を重ねていることは確かだろう。この映画は、主人公が他者を受け入れて自我を確立する物語なのだ。
ところが、この主人公が敵を倒すかというと、そうではない。
最後は、ヒロインが自分を解放する。ヒロインもまた、ここで自立するのである。
原作でも、ヒロインが姿を変えるシーンはいささか唐突で、意味がとりにくい。この映画でも、このシーンで首をかしげた人が多かったようだ。私も1回目では、原作をなぞっただけだと思っていた。
しかし、2回目で、このシーンにこめられたメッセージがわかったように思う。原作にはない、新しい意味がこめられているのではないか。
このシーンについては、「renkonnの日記」さんが、次にとりあげられるようなので、楽しみにしていよう。

本にも、一回読めばそれで十分という本と、何度も読んで味わいたい本がある。この映画は、後者だ。
観客サービスが足りないと言われれば、そうかもしれない。しかし、映画は1回きりのエンターテイメント、と考えてしまうのは、少し寂しくないか。
吾郎監督は、何度も見て味わえる作品を作りたかったのだろう。その場限りの感情移入ではなく、スクリーン内の登場人物とは少し距離を置きつつ、ストーリーを味わう作品を作りたかったのだろう。子供たちは、その場ですぐに理解することは難しいかもしれない。しかし、映画館で感じたことを、友人や家族と話すことで、感動を深められる、そういう映画を作りたかったのだろう。

彼は、理想を追いすぎたのかもしれない。その結果、多くのファンを失望させたとすれば、その痛みを一番感じるのは、監督本人だ。
しかし、一方では、彼のメッセージをしっかりと受け止めるファンや、新しい観客が、少なからず、いるに違いない。
昨夜、キャナルシティの入り口で、ドイツ留学をひかえたF君に会った。留学前に会いたいと思っていたので、幸運なめぐり合わせだった。
ちょうど、ゲド戦記を見てきたところだった。感想を聞くと、「暗いけど、シュナの旅を思い出させる作品で、僕は好きですよ」という返事がかえってきた。しばらく、映画の感想について言葉を交わして、別れた。
若い世代にも、きっとこの映画は受け継がれていくことだろう。
バトンは確かに、次の世代に渡されたのである。