異を唱えることの意義(補足)

2日前のブログで、「自由に異を唱えられる文化が、これからの時代には必要とされていると思う」という主張に続けて、次のように書いた。

もちろん、異を唱えるには、大義が必要だ。個人的な価値観で異を唱えても、誰も支持しない。また、異を唱えた以上、その発言に最後まで責任を持つ必要がある。批判するだけで行動しない人は、現実を変えることはできない。

これに対して、結論が前半の主張と逆ではないかというご指摘をいただいた。確かに、「批判するだけで行動しない人は、現実を変えることはできない」という文章には、自由な批判に対して否定的なニュアンスがある。これは私の本意ではない。不明を反省し、上記の主張は潔く撤回したい。2日前のブログからは削除した。
上記の内容は、常日頃、私が自分自身に課している戒めではある。しかし、他の人に同じことを要求すれば、それは抑圧につながりかねない。
「立場」は、それ自体が他を抑圧する力を持つ。「立場」のある者は、そのことをよく肝に銘じておく必要がある。そうでなければ、「批判者」がいつの間にか「抑圧者」に転じてしまうだろう。