学士力論のルーツ

ブラックジョークはさておき、学士力論のルーツを少しまとめておきたい。「学士力」の議論はいまに始まったことではないのだ。

これは基本文献。この報告に、学位に関して以下の記述がある。

  • 国際的通用性のある大学教育または大学院教育の課程の修了に係る知識・能力の証明として,学術の中心として自律的に高度の教育・研究を行う大学が授与するという学位の本質は,国際的に共通理解となっている。
  • このため,学位に関する検討を行うに当たっては,学位が国際的通用性のある大学教育等の修了者の能力証明として発展してきた経緯を踏まえ,課程を修了したことを表す適切な名称の在り方,他の学位との相互関係等を踏まえて審議していく必要がある。例えば,博士の学位は独立した研究者としての基礎的な能力証明を意味するものとして授与されるべきとの考え方もある。
  • 現在,大学は学部・学科や研究科といった組織に着目した整理がなされている。今後は,教育の充実の観点から,学部・大学院を通じて,学士・修士・博士・専門職学位といった学位を与える課程(プログラム)中心の考え方に再整理していく必要があると考えられる。

この報告以来、学部・大学院を通じて「学位の質の保障」が必要だと言う議論が続けられ、この観点にもとづく政策の具体化がはかられてきた。その結果、研究大学院の博士課程にまで、もっと授業を増やすという方針が検討されはじめている。私はこの方針には反対だ。この方針が議題にのぼった先日の大学院教授会では、授業を増やしても人は育たないと熱弁をふるった。
このような一見馬鹿げた方針がまじめに検討されている背景には、国際的な規模で大学教育の質保証を行おうという OECDEU の呼びかけ(外圧)がある。しかし、60 年に及ぶ努力を通じて統合されたEU の大学教育の歴史を顧みずに、「学位の質の保障」というコンセプトだけを日本に持ち込んでも、生産的ではないだろう。日本の大学教育の歴史に関する批判的検討と反省のうえに、改革案が検討されるべきだ。

この答申で、「学士力」13項目の原案が提示された。

上記の中教審答申を受けた私大連報告書「私立大学における教育の質向上〜わが国を支える多様な人材育成のために〜」の第3章。この報告書は、中教審答申と違って、私大関係者の「肉声」が聞こえてくる点で、面白い。「雑木林型教育」(私立型)vs.「人工植林型教育」(国立型) という比較論は、やや割り切りが良すぎるきらいはあるが、私大教育者の自負が感じられるので、私は好意的に読んだ。「雑木林型教育」で検索して、以下のサイトにたどりついた。

  • 多文化・異文化、人類の文化、社会と自然に関する「知識の理解」だけでも、簡単なことではありませんが、3つ目と4つ目の「態度・志向性」と「統合的な学習と創造的思考力」は、従来の大学教育では考慮されていません。知識・理解力の段階では教員の教育力によると言えるでしょう。しかし、それ以降になると教育力だけでは不十分で、学生と教員のディスカッションの中からつくり出していかなければならないことが多くなります。場合によっては、学生に教員が教えられるという意図的に逆転させた教授法というのも必要かもしれません。大学教育のダイナミズムが問われていると言えます。
  • さらにそれ以前の問題があります。今高校では、受験の段階で偏差値などによって文系、理系に分けられてしまいます。理系ならメーカー、文系なら金融などと人生が決まってしまうようなことをしています。私はこれを人工植林型人材育成と呼んでいます。学生がどういうことをしたいかを決める以前に他律的に選択してしまう人材育成法です。大量の同質的人材を輩出する教育は20世紀にはよかったかもしれませんが、これからは、雑木林型の教育システムが必要です。国際基督教大学が、創立以来一貫して進めて来て、昨年の入学生からさらにその考えを徹底させたリベラルアーツ教育がなぜ、今必要かということが問われてきます。

上記の私大連報告書第3章は、鈴木典比古さんが熱筆をふるわれたのだろう。鈴木さんが指摘されているように、高校までの、「大量の同質的人材を輩出する教育」で育った学生に、個性的で多様な能力を伸ばす場を提供するのが大学の重要な役割だ。しかし、「大学卒業に厳格な認定試験」導入という中教審案は、「大量の同質的人材を輩出する教育」を大学まで延長する発想ではないだろうか。
「学位の質の保障」→「共通の基礎的な能力保障」→「大学卒業に厳格な認定試験」、という短絡的で非創造的発想こそ、日本的システムの改革されるべき課題だと思う。