論文を書くことはなぜ苦しいか?

Xさんの論文を改稿している。自分の論文を書くことでさえ、決して楽ではない。『これ論』著者として知られる酒井君ですら、「なかなか論文を書けない若者のために」を自分で読み返して気合いを入れているそうだ(3/8(水)の進歩)。
ましてや、論文を書きなれていない人の原稿を直すのは、なかなかに大変な仕事である。
憲法第18条に「何人も、・・・その意に反する苦役に服させられない」とある。若者の気持ちも顧みず、「これが意に反する苦役でなくて、いったい何だ」とつぶやいたりする。本人のやる気を高めるには、褒めるのが鉄則なのだが、どうも論文執筆という作業に関しては、褒めたり、鼓舞したりするだけでは、問題が解決しないように思う。
なかなか論文を書けない若者のために」は、本当に良く書けた指南書だが、しかし、これを読んでも、なかなか論文を書けない若者は、やはりなかなか論文を書けないだろう。
なぜか。「なかなか論文を書けない若者のために」で喝破されているように、書くことが義務ではないからだ。
いっそ、博士課程に進む学生に対しては、投稿論文がアクセプトになってはじめて進学を認めるという制度にしてはどうだろうか。このために修士課程に3年を費やすことになったとしても、結果として、その後の研究がうまく進むのではないだろうか。
論文を書くことは苦しい。論文を書くためには、まずこの事実を直視する必要がある。こうやって、気分転換にブログを書いているということは、ブログを書くことに比べ、論文を書く作業のほうが苦しいということだ。
中には、論文を書くことが楽しいという人もいるかもしれないが、それは例外である。論文が完成すれば、そのときには嬉しいものだが、書いている途中は、多くの場合、苦しい。
なぜ、論文を書くことは苦しいのだろうか。それは、論文執筆が社会的行為ではないからだと思う。
こう書けば、進化心理学を学んだ人なら、「4枚カード問題」を思い浮かべるだろう。
たとえば、A・3・D・6と書かれた4枚のカードを用意する。A・Dカードの裏には、数字が書かれており、3・6カードの裏には、アルファベットが書かれている。さて、「母音のカードの裏はいつも偶数が書かれている」という規則が成り立っているかどうかを確認するには、どの2枚をめくれば良いだろうか。
すぐに正解に到達できた人は、抽象的思考力がかなり高い人である。
次に、「16歳 」「コーラを飲む人」「20歳」「 ビールを飲む人」と書かれた4枚のカードを用意しよう。「16歳 」「20歳」と書かれたカードの裏には、「コーラを飲む人」あるいは「ビールを飲む人」という記述がある。逆に、「コーラを飲む人」あるいは「ビールを飲む人」というカードの裏には、年齢が書かれている。さて、「18歳未満は飲酒禁止」という規則が守られているかどうかを確認するには、どの2枚をめくれば良いだろうか。この問題の構造は、A・3・D・6の場合とまったく同じだが、答えははるかにわかりやすい。
この違いから、コスミドは、人間には不正を見抜く思考モジュールがあるのだと主張した。この仮説を結論づけるには、さらなる検証が必要だが、社会的関係・社会的行為に対して、人がより強い関心を持ち、より強く動機づけられるのは、確かである。
論文を書く作業は、ブログを書く作業と違って、自己表現ではない。論文とは、主張を書くものではなく、問題設定と、問題に答える事実と、事実から論理的に導かれる結論について書くものである。
したがって、著者の主張とは独立に、論理を展開しなければならない。ここが苦しいのだと思う。
何かを主張するときには、自分の主張に都合の良い事実や理論だけ紹介すればよい。コスミドの説に批判的な意見など、紹介する必要はない。インパクトのある題材を1つだけ述べて、あとは、自分の主張をすれば良い。もちろん、議論を重ねて、合意形成をはかるときには、自分の主張を続けるだけではダメだが、こうやってブログを書くときには、もっと気楽に書き流せる。コメントがあれば、そこで会話が生じる。友好的なコメントであれば嬉しいし、批判的なコメントであれば、ムムっと、反論を返す気力が沸いてくる。
それに比べ、論文執筆は、提示する事実に徹底して制約される作業である。ここが苦しい。提示する事実にふさわしい問題設定は何かを考え抜き、その問題設定をする意義を論証しなければならない。
この作業の過程では、社会的な人間関係は介在しない。孤独な作業である。しかし、この苦しみを乗り越えなければ、自分の研究成果を世に問うことはできないのである。
楽器を覚えたり、スポーツを覚えたりするときにも、孤独な練習時間は必要だが、こちらは自己表現につながる行為である。しばらく孤独な練習を続ければ、上達したのが実感できるし、上達すれば、演奏を聴いてもらったり、一緒に競技をしたりできる。
それに比べ、論文執筆は、その技に熟達したとしても、通常はそのことによって社会的な人間関係が豊かになるわけではない。
それでも論文を書くのは、自分の研究成果を世に問うためである。

研究成果は、論文として公表されない限り、存在しないのに等しい。

一つでも多く、自分の成果を論文として世に問いたいという欲望が強い人ほど、論文をたくさん書ける。
「なかなか論文を書けない若者」は、「論文をばりばり書く若者」に比べ、このような欲望が弱いのかもしれない。このような欲望が弱いからといって、決して人間的に劣っているわけではない。むしろ、人間的に穏やかで、社会的な関係を好む人ほど、孤独な苦行から逃避する傾向があるかもしれない。
とすれば、問題を解決するには、「制度」による義務化が有効ではないか。「制度」があれば、指導する側にもその期限に間に合うように対応する義務が生じる。
さて、ブログへの逃避はこのくらいにして、苦行に復帰しよう。