人間性をめぐる5冊の本
現在、「地球と生命」という全学共通教育(かつての教養教育)のコア科目を担当している。全学共通教育の中で、「地球」や「生命」をとりあげることは、時代の要請に応えていると思う。しかし、たった6回程度の授業で、「生命」についての基礎知識を教えることは、かなり難しい。そこで、「地球」と「生命」を分離してほしいという意見を、機会あるごとに主張してきた。
この意見も含めて、全学共通教育の現状についてはさまざまな問題点が指摘されている。そこで、全学共通教育のあり方についての再検討が進められてきた。最近、改革案がまとまったらしい。何人かの人から伝え聞いたところによると、コア科目を廃止し、「人間性」「社会性」などをテーマとする新たな必修科目を設ける案だという。
「何でやねん?」というのが率直な感想である。改革というのは、現状の問題点を分析し、個々の問題点を具体的に解決することで、はじめて達成できる。私には、「地球と生命」というコア科目をご破算にして、まったく新しい試みをする意味が理解できない。そもそも、「人間性」というテーマで、どのような講義をするのか、誰に聞いてもはっきりした答えがかえってこない。何を教えるかについての具体的なビジョンなしに、カリキュラムを変えようというのか。
声を大にして言いたい。教育熱心な教官のやる気を削ぐような提案は、改革案とはいえない。
もっとも、私自身は、「人間性」というテーマで学生を飽きさせない講義を15回くらいやる自信はある。大学1年生の時期に、「人間性」について真剣に考える経験を持つことは、大変意義のあることだろう。では、どうすれば、学生を飽きさせずに、このテーマについて真剣に考えてもらうことができるだろうか。さらに、全学教育なのだから、単に考えるだけでなく、先人たちが残した知的遺産をきちんと継承してほしい。そのうえで、自分の考えを持ってほしいのだ。
私なら、「人間性をめぐる5つの本」と題して、次の5タイトルをテキストに指定し、1つにつき2−3回のコマを使って解説する。事前に読んできてほしいが、事前に読んでいない人にもわかるように解説することは可能だろう。
授業では、本の内容から派生する問題について、学生に問いかける。このやり方は、マスプロ講義でも、実は使える。学生に問題を投げかけて答えさせる授業法の効用は、「地球と生命」で実証ずみである。
1つの本が終わるごとに、レポートを書いてもらう。レポートのテーマは、本を少なくとも斜め読みしないと書けないものにする。レポートを書くにはテキストを必要とする。全部買うと1万円くらいの買い物になるが、絶対に損したとは思わせない講義をする。
銃・病原菌・鉄〈上・下〉―1万3000年にわたる人類史の謎
ジャレド ダイアモンド (著), Jared Diamond (原著), 倉骨 彰 (翻訳)
草思社; 上巻; ISBN:4794210051 ; 下巻; ISBN:479421006X
各¥1,995 (税込)
人間性について考えるうえで、歴史的な認識は不可欠だ。歴史に関する良書は数多くあるが、現代人の教養として1冊だけを選ぶなら、本書だと思う。
本書は、ピサロが率いるわずか200人足らずのスペインの部隊が、皇帝アタワルパの大軍を退け、インカ帝国を滅ぼすシーンの描写からはじまる。この描写は、大学1年生の新鮮な好奇心をひきつける題材としては、申し分ない。いったいなぜ、わずか200人足らずの部隊がインカ帝国を滅ぼすことができたのか? この「なぜ」という問いかけが、重要である。「なぜ」と問うことで、科学の芽が芽生える。
本書には、次々に「なぜ」という問いかけが登場する。考える題材が豊富である。さらに、地球的な視野で、文明の起源から現代までを鳥瞰する見方を教えてくれる。新入生が最初に取り組む読み物として、文系・理系を問わず、薦められる本である。
父が子に語る世界歴史〈5〉民主主義の前進
J. ネルー【著】、大山聡【訳】
ISBN:462208015X
みすず書房 :¥2,310(税込)
言わずと知れた本だ。投獄されたネルーが幼い一人娘インディラへ送った書簡集全8巻のうちの1冊である。今となっては古くなった部分もなくはないが、「人間性」に関する普遍的なメッセージが込められている。
全8巻のうち第5巻を選び、ダーウィンの進化理論を、その社会的背景とともに教える。さらに、マルクス・エンゲルスによる社会主義理論の展開、アメリカの南北戦争などをとりあげる。20世紀前夜の歴史については、話題にことかかない。
進化理論と社会主義は、「人間性」について考えるうえでは、欠かせないキーワードだ。時間があれば、「優生学」もとりあげたい。
ワイルド・スワン〈上・下〉 講談社文庫
ユン チアン (著), Jung Chang (原著), 土屋 京子 (翻訳)
上 ; ISBN:4062637723 ; ¥800; 下 ; ISBN:4062637731 ; ¥800
社会主義の高邁な理想と、共産党員の崇高な利他的精神が、いかに惨めな結果を招いたかをこれほどリアルに描いた本は他にない。社会主義はなぜ間違ったのか、利他的行動はなぜ人類を幸福に導かなかったのか、学生たちと一緒に考えたい。
進化と人間行動
長谷川 寿一 (著), 長谷川 真理子 (著)
東京大学出版会 ; ISBN:4130120328
価格: ¥2,625 (税込)
利他的行動といえば聞こえは良いが、実は個人の利益を制約するものである。そもそも、人間は利己的なのか、それとも利他的なのか。もちろん、正解は、そのどちらかではない。
こうした問題を考えるうえでは、ダーウィンの進化理論とその発展について、正しく理解する必要がある。本書は、「人間性の進化学的理解」に関して日本語で書かれた最善のテキストである。2−3回ではとても尽くせない内容であるが、予習・復習を課せば、要点は理解してもらえるだろう。
DNA (上・下) ブルーバックス
J・ワトソン (著), 青木 薫 (翻訳)
講談社; 上 巻; ISBN:4062574721 ; ¥1,197 (税込);下 巻;ISBN:406257473X;¥1,260 (税込)
最後は、ワトソンにご登場いただく。DNAの二重らせん構造の発見にはじまり、ヒトゲノム計画にいたる分子生物学の歴史を、つねに時代の先端に立ち続けた著者が、赤裸々につづった本である。
本書は最後に、人間の遺伝的改変という重いテーマをとりあげている。重い遺伝病因子を取り除きたいという願いは、子供にその因子を伝えたくない母親の切実な願いである。しかし、果たして胚の段階で遺伝子を操作することは、許されるのか。現代社会が直面しているもっとも大きな問いがここにある。
この問題を学生たちに問いかけて、講義を終わる。
もちろん、このような構成が、「人間性」についての講義の唯一の解ではない。他に多くの魅力的な構成がありえると思うが、しかし、解の数は、かなり限られているかもしれない。
「人間性」についての全学共通教育に対応するには、自然科学と社会科学の双方について、それなりの知識・見識が必要である。今や、人間の自然科学的理解ぬきに、「人間性」を語ることは困難だ。しかし、自然科学の成果だけを教えるだけでは、明らかに不足である。
両者のバランスが必要なのだが、さて、果たして何人の教官がこの課題をこなせるだろうか。
教科書をつくってしまうというのが一つの解決策だが、教科書的な講義では、面白くないだろう。講義をする教官が、「人間性」について、いろいろな角度から考えていることが必要なのだ。
すぐれた全学共通教育を行うには、それを担う教官群を新たに組織する必要があると思う。