大学教官の専門性への対価

5月31日のブログで、「専門的知識提供への対価」について問題提起をし、「理系白書ブログ」にトラックバックを送った。これに対して、元村さんが6月1日のブログで応えてくださったので、長い議論が起きた。この問題について、もう少し考えてみたい。
問題を、とりあえず大学教官に限定したい。大学教官は、教育・研究・社会貢献という3つの仕事をしている。「対価」問題を考えるうえでは、この多面性を無視できない。この点で、大学教官は企業の研究者とは異質である。
昨今、大学教官に対する要求は、教育・研究・社会貢献の全領域で高まっている。
教育に関して言えば、ここ10年ほどの間に、従来の大学教育に対して、きわめて厳しい批判が続いた。「10年間同じノートを使っている」といったステレオタイプ的な批判が繰り返し行われ、大学教育は問題だらけという印象が社会に定着したように思う。このような批判は、行き過ぎだったと思うが、ここではそれは問わない。
結果として、大学教官は、全学教育や学部教育の改革に、多大なる労力と時間を費やしている。学生による授業評価も一般化した(ちなみに私は、はじめて教壇に立って以後およそ25年間、自主的に学生による授業評価を続けている)。そして、授業に対する評価の高い教官に対して、報奨金を出してはどうかという議論が起きている。
一方で、科学の発展はめざましく、研究技術の進歩もはやい。大学教官は、膨大な情報量をこなし、日進月歩の技術をフォローし、なおかつ新しい成果を生み出すという課題に立ち向かっている。その成果は、しばしば産業や国家の競争力に大きな影響力を及ぼすに至っている。日本政府は、逼迫した国家財政の中で、科学技術予算だけは増やし続けている。
このような事情を反映して、研究者としての大学教官への要求が高まる一方で、評価も厳しくなっている。
さらに、社会貢献への要求も高まっている。マスコミからの取材の増加も、その一例である。科学への社会の関心が高まった結果、テレビが科学をとりあげる頻度が高まったし、新聞の科学記事も格段に増えた。大学教官がマスコミの取材に使う時間は、「売れっ子」なら決して少なくない。私ですら、結構頻繁に取材を受ける。取材にあたり、2時間くらいを費やすことは少なくない。しかし、大学教官にとって、2時間を割くという行為は大変なことなのだ。
「ブログ」を書いている時間があるじゃないかと言われそうだが、この「ブログ」は、大学教官に対する評価を変えたいという思いもこめて書いている。大学教官をめぐる上記のような変化の中で、教育にも研究にも、社会貢献にも直球を投げ続けるのは、大変だ。とても同僚の多くに薦められることではない。誰かが社会に向けて、実状を発信する必要がある。
さて、このような大学教官がもらっている給与は、いったい何に対して支払われているのだろうか。私は、基本的には教育に対する対価であると思う。国民全体に高等教育への機会を保証するために、国立大学があるのであり、また私立大学への補助がある。研究者として評価の高い大学教官を雇うために、授業料をあげるというのは、筋が通らないと思う。法人化後の大学では、今後、そのような傾向が顕在化しかねないが、これは困ると思う。
もしこの点に関して、社会的合意が成り立つのならば、すぐれた研究成果をあげたり、社会貢献に多くの時間を割く教官に対しては、大学教官への給与とは別の資源から、対価が支払われるべきだと思う。
たとえば、マスコミの取材に対して、調査に時間を費やす場合には、応分の対価をマスコミ側が支払うべきだろう。確かに、大学教官の知識は公共財ではあるが、その公共性は第一義的に教育を通じて社会に還元されるべきものだ。その範囲をこえたリクエストに対して、別途に対価が用意されないと、大学教育がゆがめられてしまうのではないか。
現在の授業料収入は、まっとうな大学教育を実行するという目的に限っても、決して十分ではない。一流の科学者が、自分の時間を割いて、授業のプリントを印刷したりしているのである。企業からのサポートも増やして、大学教育を充実させる必要があると思う。
先日来の議論に関して、このような考えに至った。さて、みなさんは、どう考えられるだろうか。