大学教官の専門性への対価(続)

昨日のブログに対するスーパーTSさん、shimotsukiさんのコメントに応え、取材の「対価」と教育評価について考えを述べたいと思います。
発明・発見に対する取材に関しては、当事者は報道による「宣伝」という対価を受け取ると考えるのが妥当だと思います。受賞に対する報道と同じ考え方でよい。
この場合の問題は、「宣伝」が、正確かつ適切になされるかどうかということです。私がN誌に論文を発表したときには、新聞記者に対して、私の発見は最初ではなく、先行研究の成果を最先端の手法で確認したものであることをていねいに説明したのですが、あたかも私が最初に発見したかのように報道されてしまいました。資料として、先行研究を引用した解説を新聞社にファックスで送ったにもかかわらず、先行研究については一切報道されませんでした。そのため、私の論文に関する新聞報道が、最初の発見者や関係者の名誉を傷つける結果となり、発見者・関係者に事情を説明してお詫びしました。報道後の顛末は、取材をした記者全員に伝えましたが、私に詫びた方はいても、最初の発見者に詫びた方はいらっしゃいませんでした。研究者にとって、プライオリティがどんなに大切かを、科学報道に関わる記者がほとんど知らないという現実を知りました。
その後、私は、原稿を見せてくれない限り、研究成果に対する取材には原則として応じないことにしています。これまで原稿を見せることに同意してくれた記者はいません。この件に関しては、書くと長くなるので、ここまでとします。
このような問題が解決され、発明・発見の内容が正確かつ適切に報道されるならば、報道による「宣伝」を、取材への対価とみなしてよいと思います。
これに対して、当人の研究成果以外のテーマについて、記者の要求に応じて、専門的知識を提供する場合には、「相談料」として、応分の対価が支払われるべきではないかと考えます。
このように考えざるを得ない状況を作ったのは、国立大学の法人化です。今後、国立大学は、運営交付金が毎年減らされる中で、さまざまな改革を実施していかねばなりません。そのためには、独自収入を増やす以外、道はないのです。国立大学の知的財産はもはや、「国民の税金で支えられる公共財」ばかりではなくなってしまった。それは確かに公共財なのですが、公共財を支える収入を増やす道を真剣に追求しない限り、「コモンズの悲劇」が待ち受けています。公共財のユーザーに対して、応分の負担を求めなければならなくなった。
国立大学は、基本的には高等教育機関です。したがって、国立大学法人の運営交付金(=税金)から支払われる教官の基本給は、教育に対する対価とみなすのが妥当だと思います。
ただし、日進月歩の科学の成果を教育に生かすには、大学教官が、教育者であると同時に、研究者としての創造性を維持している必要があります。Shimotsukiさんが指摘されているように、研究の第一線から退いた教官の授業は、学生に刺激を与えないことが多い。すぐれた教育を行うため、大学教官は研究を許されていると思うのです。
また、大学院教育の現場では、次の世代への教育の成果がそのまま、新たな科学的発見につながります。研究の現場に、次の代をになう大学院生がいる意義は大きい。この事情のために、国立研究所のスタッフにとっては、大学院生教育を行うことが悲願でした。この悲願は、連合大学院大学という形で実現しました。
以前は、効率化のために、教育と研究を分離すべきだという主張が幅をきかせていましたが、今ではこのような主張はあまり聞かれなくなりました。
全学教育・学部教育・大学院教育にどれだけ比重を置くかという問題については、別途に良く考える必要がありますが、大学教官の基本的任務が教育であるという点は、法人に対する運営交付金の性格との関係で、しっかり確認する必要があると思います。
一方で、研究開発が国家戦略としての重要度を増し、逼迫した国家財政の中で、科学技術予算だけは増加し続けている現状の下で、大学教官の研究開発に対する社会的要請は非常に大きなものになっています。このニーズが高等教育をゆがめないようにすることが大事です。
最近では、大型研究費には、間接経費がつくようになりました。私は、間接経費の一部を、教育のための予算として運用してはどうかと考えています。本来の趣旨と違うという意見があるかもしれませんが、大学教官が大型研究費を得れば、研究開発により多くの時間を割くことになります。そのような研究者に、授業のプリントを自分でつくれというのは酷な話です。秘書を雇う費用の一部を間接経費から出せるようにすれば、秘書に教育の支援を頼めます。
構造的な問題は、過去四半世紀の間に、高等教育への社会的ニーズが高まり、研究開発に対しても国家的要請が高まったにもかかわらず、国立大学の校費は一貫して減少し、事務官・技官のポストについても定員削減が続き、国立大学の教官の仕事は一貫して増え続けたことにあります。法人化によって、さらに仕事が増えました。
教育に限定しても、現状の国立大学運営交付金では、予算不足です。過去10年あまりの大学教育パッシングの結果、国立大学では教育改革に大きな努力を払うようになりました。それ自体は良いことであり、過去の大学教育に大きな問題があったことも否定しません。しかし、現状では、国立大学教官の献身的な努力(=労働強化)によって、教育改革が行われています。
私は昨年から、授業の最後10分程度を、質問票に質問を書く時間とし、質問票に記入された質問に対して、ウェブで回答するようにしました。この方法を同僚が実施しているのを知り、教育効果がきわめて高いと考えて、早速取り入れたのですが、やってみると大変です。ただでさえ時間がない中で、回答を書くには、他の仕事の時間を削るか、あるいは寝る時間を削る以外ない。
今年から、入力はTA(ティーチングアシスタント)に頼めるようになりました。TAの予算が増えてきたのは、朗報です。しかし、質問票への回答を多くの教官が始めたら、TA予算はたちまち逼迫するでしょう。
これは一例です。良い教育には、時間も労力もかかるのです。
さらに、国立大学教官に対しては、教育・研究に加えて、社会貢献への要請も増えています。しかし、予算もポストも増えない中で、そんなにたくさんの要求をされても、応えきれない。現状は、意欲のある大学教官の情熱と献身によって、社会貢献が実現されています。このような状況は「持続可能性」が低い。
したがって、社会貢献に対しては、原則として、応分の対価を求めるほうが良いと思うのです。そのことにより、必要とされる場合に無償奉仕を行う余裕も増すと思います。
これから、鹿児島グリーンヘルパー養成講座で、市民に講演。社会貢献の一つです。この仕事では、謝礼をいただいています。このような社会貢献でいただく謝礼は、卒業研究生や大学院生への支援に役立てています。