評価と報奨のむつかしさ(2)

今回は、研究の評価について考えてみる。
研究の評価に関しては、教育の評価に比べれば、現実的な可能性がある。
教育と違って、人と人との関係ではないので、研究内容や研究実績についてはより客観的な評価ができる。
また、教育とは異なり、自分の探究心を満足させるための行為、つまり利己的な行為なので、評価の結果を報奨に結びつけることに、教育評価の場合のような倫理的違和感はない。
ただし、研究の評価は案外、一致しないものである。私は、4つの組織で教員採用人事に携わった経験があるが、研究の評価基準は組織によって大きく異なっていた。また、同じ組織でも、教員によって考え方が大きく異なり、候補者を絞り込む段階で大きく意見が分かれることは珍しくない。
研究評価の基準としては、論文数や、被引用度がよく使われる。しかし、私の経験では、人事の最終段階で、この2つの基準が使われることはあまりない。批判を恐れずに言えば、ほとんどないと言っても良い。
論文数は、候補者が多数にのぼる場合の、一次選考の基準にはしばしば使われる。この場合、論文数が少なくても、被引用度が高い論文を書いている人は、二次選考の対象に残す場合が多い。したがって、論文数や被引用度は、二次選考の対象に残るためには、重要である。
それ以後の選考では、専門分野・研究材料・方法論がほぼ同じとみなせる人を比べてどちらかを選択する場合に、論文数や被引用度を参考にする。しかし、専門分野・研究材料・方法論が違えば、論文数や被引用度は、必ずしも参考にならない。
二次選考以後の過程でもっと重視されるのは、研究にストーリーがあるかどうか、独自の材料・方法論・アイデアを持っているかどうか、被引用度では必ずしも計れない研究のインパクトや意外性、これからの発展性、などの評価基準である。そして、これらの評価基準のどれを重視するかは、研究者によってさまざまである。この違いには、研究者の価値観の違いが反映している。価値観がからむ以上、完全に公平な評価、客観的な評価は、あり得ないと言っても良い。
たとえば、重要な事実の発見と、重要なモデルや理論の提唱のどちらを重視するか、これは難しい問題だ。
チャレンジングな研究の場合、評価が大きく分かれることがある。「発展性」というものを評価すること自体が容易ではないし、また、かりに発展性に関する評価が一致したとしても、発展性の点ですぐれた研究と、実績の点ですぐれた研究のどちらを評価するかは、難しい判断である。
結局、評価の基準は多元的である。研究の発展のためには、多元的な評価が保証されることが、きわめて重要だと思う。
評価自体は、徹底してやるべきだ。研究を発展させるひとつの重要な原動力は、批判的精神である。どんな既成概念にも疑いを持ち、徹底して精密な論理を構築し、徹底して実証することによって、科学は成功を収めてきた。このような批判的精神を失えば、科学は停滞する。したがって、私は批判的な評価を行うことに反対するつもりは毛頭ない。
しかし、評価を報奨と結びつけることには反対だ。とくに、評価を任期制と結びつけることは、大学の自由な批判精神を損なう愚挙だと思っている。
なぜなら、報奨や任期に結びつくことがわかっていれば、遠慮のない批判ができなくなるからだ。どんな批判であっても、それが純粋に科学者どうしの、報奨とは無縁の議論であれば、冷静に受け止めることができる。しかし、批判が金銭的・社会的利害とからんでくれば、遠慮のない批判が難しくなるし、また評価にともなって、ひがみ、やっかみ、などのどろどろとした感情がうごめくことになるだろう。
努力した者に報奨が与えられるのは当然だ、というのが社会の常識かもしれない。とすれば、大学は、社会の常識が通用しない組織である。それで良い。そもそも、多くの大学教官は、金銭的な対価がほしくて研究をしているのではない。大学教官には、自分の好奇心にもとづいて、未知の世界を探求できるというすばらしい機会が与えられている。このような大学の研究者にとって、研究への努力に対する最大の報酬は、知的満足である。研究への努力に対して、金銭的な対価がほしければ、企業の研究所に行けば良い。
以上に述べたことは、理学部に所属する基礎科学系の研究者の意見である。工学系や農学系では、事情は多少異なるのかもしれない。
すぐれた研究成果にきちんとした対価を与えないと、人材が学外に逃げるという意見がある。もしかすると、工学系や農学系では、そのような事情があるのかもしれない。
しかし、それならば、研究の自由を与えるだけで、人材が集まってくる分野を大学に残せば良いのではないだろうか。
ただし、大学教官は日々の「雑用」に忙しく、なかなか研究に時間を割けないという悲しい現実がある。改革すべきは、この現実である。
7月後半は、毎朝早起きをして、圃場で鉢を並べ、研究に時間を割いたが、8月になってからは、研究に時間が割けないでいる。
評価、評価と言う前に、この現実を何とか改善したいものだ。評価に熱心な人が、しばしば自分自身では研究をしていないという状況は、どこか間違っているように思う。
私は、他人の研究の評価に時間を割くよりも、自分で研究をしていたい。