達人が語る達人への道

千住博千住博の美術の授業 絵を描く悦び』
ISBN:4334032478
光文社新書

分野が違っても、達人の言葉には普遍性がある。画家として独自の世界を築いた著者の言葉には、科学者にも通じる真理が含まれている。本書は、著者が京都造形芸術大学で学生の作品を目にし、一点一点に講評した経験をもとにまとめられた本だという。このようなあとがきの説明に興味を持って買ってきたが、その内容は期待をうわまわるものだった。科学者をめざす若い人にも参考になると思うので、内容を少し紹介しておこう。
著者は、画家として成功するには、上手いかどうかよりも、「とことん好き」かどうかが肝心だという。

画家として成功するには、ではどうしたらよいのでしょう。私は受験時代から今日に至るまで実に多くの画家を志す人々、そして成功した画家たちに出会ってきました。上手い人ばかりではありません。むしろ少し考えてみると、成功した人にあまり上手さが目立つ人はいなかったような気もしてしまう。何かをやって成功するタイプとはどんなタイプなのか・・・。それはとにかく一言で言えば、「とことん好き」という連中です。朝早く起きて寝るまで絵のことで頭がいっぱい、そんなイメージです。

同感である。科学者でも、頭が良いかどうかよりも、研究にとことん打ち込めるかどうか、それが肝心だ。もちろん、ある程度の学力は必要である。しかし、その先は、どれだけ没頭できるかにかかっていると思う。情報処理能力にたけていて、すぐに先が読めてしまう人は、ちょっとした問題を解くことに、なかなか興奮できない。しかし、どこにどんな発見が待ち受けているかは、そう簡単に予測できるものではない。あまり先を読んでしまうと、かえって発見の幸運をつかみそこねるかもしれないのだ。
著者は、次のようにも述べている。

よく作品をつくるときに「量より質だ」と言われますが、そんなことはありません。ものをつくる人間は、誰でも次はもっと質の高いものをつくろう、描こうと思っています。しかしそれだけで次々に質の高いものがつくれるならば苦労はいりません。
むしろ私は「質より量だ」と考えています。質の高いものというのは、量を描いている中に、偶然混じっているものだからです。

この点にも同感である。考えてばかりで、実験や観察を繰り返しこなせない人は、研究者としてはなかなか成功できない。理論的な研究分野でも、計算したり、数式を組み立てたりする作業を繰り返しこなすことが大事だろう。
論文も、繰り返し書くことが大事だ。質の高い論文は、たくさん書くなかで、はじめて手にすることができるものだと思う。
著者はさらに、「伝えたい心」を持っているかどうかが大切だという。

画家として大成するには、とにかく好きで夢中になれることが大切だということです。でも、それだけではありません。同じくらい大切なことがもうひとつあります。それは「伝えたい心」を持っているということなのです。どうしてもこれを人々に伝えなくてはならない、これを見てくれ、感じてくれ、という強い想いです。

研究者の場合にも、「伝えたい心」を「わかりたい心」に置き換えれば、事情はほとんど同じだと思う。自分がどうしても理解したい疑問を持つこと、それが大切だ。指導教官が与えてくれた疑問でも構わない。要は、本人がとことんわかりたいと思うかどうかだ。
今日は、良い絵に出会い、良い本に出会えた。たまには休養も良いものだ。
しかし、次の記述にはいささかまいった。

絵を描いて疲れたら、絵を描いて疲れを癒す。風邪をひいたら絵を描いて治す。自分の作品に癒されなくて、どうして他の人を癒したりできるでしょう。少なくとも私はこれを二十五年続けてきています。

いやはや恐れ入った。しかし、生物学者としては、疲れたときは休んだほうが良いと思う。高揚した精神だけでは、疲労は回復できない。