「コクリコ坂から」の余韻

成田空港に向かう京急車内。今日の車内では、仕事はせずに「日記」を書いている。大きな仕事(環境省戦略研究プロジェクトのキックオフ会議)を終えた直後は、頭の切り替えが必要だ。今日はクアラルンプールに飛ぶ。明日からは、マレーシアの「森林総合研究所」(FRIM)でプロジェクト評価委員をつとめる。
ふっと一息つくと、「コクリコ坂から」の余韻がじんわりと心にひろがり、心地よい。この作品は、きっと長く愛される映画になるだろう。試写会の評判が良かったので期待はしていたが、期待を大きく上回る出来ばえだ。ジブリにまた、新しい傑作が生まれた。
思い返してみると、実に不思議な映画だ。脚本は、少女マンガ原作のベタなラブストーリー(「出生の秘密」というベタベタなネタまでついている)に、宮崎駿の理想(青春はかくあるべし、少年も少女も純潔でなければならない、などなど)が付加されたものなので、薄味の映画には不向きな題材だ。しかし、できあがった映画は、良い意味で薄味。デリケートな味わいが、あとあとまで余韻を残す、極上の薄味スープだ。たとえて言えば、脂ぎったウナギと香りの強いハーブを素材に「究極のメニュー」を作れというリクエストに応えて、脂と香りを抑え、旨みを際立たせた薄味スープを作った。このスープを作ったシェフの腕前は、本物だ。「シェフ」は見事な仕事(演出)をしたと思う。たっぷり詰め込まれた「具」のどれかの味が勝ってしまえば、バランスを欠いた食えない料理になっていたはずだ。
このように、「デリケートな味わい」がある作品なので、ストーリーを紹介しても、その良さは伝えきれない。この作品が心地よい余韻を残すのは、海と俊という二人の主人公の心を、とても自然に、とても静かに、とても瑞々しく描いたからだろう。主人公二人は、ハヤオ監督の映画に登場するような理想化された人物ではない。ごくふつうの少年と少女だ。これが吾朗監督のポリシー。
ハヤオ監督の理想化がもっとも成功したのは、パズーとシータだろう。パズーとシータには、私たちが「少年」「少女」に求める理想が、うさんくさくならずにうまく表現されている。二人は誰もが共感し、応援できる魅力的なキャラクターだ。しかし、パズーとシータのような理想的なキャラクターが活躍できるのは、冒険ファンタジーの世界である。ラブストーリーに理想を持ちこむのはむつかしい。「耳をすませば」の脚本にも、きっと理想が詰め込まれていたと思う。近藤監督は、その脚本をうまく料理したとは思うが、それでも「理想」の味は、かなり残ったように思う。
コクリコ坂から」にも、脚本の原案を出した宮崎駿の理想が詰め込まれているのだが、吾朗監督はそれを感じさせないようにうまくアク抜きをして、海と俊の心の交感をさわやかに描いた。
音楽も良い。ただし、音楽は二人の心の動きではなく、カルチュラタン取り壊し反対をめぐる周囲の動きにマッチしている。このため、最後に二人が船長に会いにいくシークエンスまでは、二人の心の静かな高まりとは対照的なBGMに、ちょっとした違和感がある。しかし、二人の心がひとつになったときに、音楽は軽快なテンポから、静かな主題歌に代わる。ここで、音楽と心がぴったりと合う。なるほど、このためにBGMをずらしていたのかと、感心した。
全体の絵のタッチとは対照的な一枚の油絵も、印象に残った。前半で、一見静かな海の心の中に、実は熱い気持ちが芽生えていることを暗示するシンボルとして、うまく使われている。そして最後はこの絵がしめくくる。これは誰の発案なのだろう。
(ここまで書いたところで、成田空港に到着。本屋によると、「コクリコ坂から ビジュアルガイド」が目にとまったので、早速購入した。いまは、マレーシア航空の機内である)。
「ビジュアルガイド」掲載の吾朗監督のインタビュー記事によれば、なんと吾朗監督は中学時代に、原作を読んでいた。ナウシカ制作後に放心状態となった宮崎駿が、信州の山小屋にこもっているときに、「コクリコ坂から」の原作を読んだというエピソードは、宮崎駿エッセイ集「出発点」を読んで知っていた。実はこの原作が掲載されている「なかよし」は、吾朗監督のいとこが山小屋に持ってきたものだという。いとこの女の子や少年時代の吾朗監督が読んでいたマンガを、親父も読んだのが、事の始まりだったわけだ。そしてこの原作について、「まだ40代の宮崎駿と押井さんたちが集まって侃々諤々している。それを一度だけ目撃した」ことがあるそうだ。吾朗監督は、宮崎駿押井守庵野秀明ら日本アニメ界屈指のクリエーターたちの日常を見聞きしながら育ったわけだ。才能を受け継いだかどうかは別として、吾朗監督が父親の世代の経験と歴史を受け継いでいることは、間違いない。
作品中で、「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!」と俊が演説するシーンがある。このセリフは脚本にはなく、吾朗監督が付け加えたそうだ。このセリフには、「古いもの」を新しい世代が引き継いでいくことへの、吾朗監督の決意が込められているのだろう。
インタビューで吾朗監督は、「団塊の世代が若かったころの話なんてバカバカしくてやってられない、と否定しても始まらないし、かといって昔はよかったみたいに肯定もできない」と語っている。ではどうしたかというと、「人を恋うる心を描く」という父親の脚本のテーマに軸足を置き、さらにこのテーマに新たな解釈を加えた。

「人を恋うる」とは、海ちゃんと俊ちゃんの話だけではなく、彼女たちのお父さんやお母さんの関係だったり、・・さらにその友達とかね、要するに人と人がつながっていく、その時にある思いについての話なんです。

なるほどこれが、「極上の薄味スープ」の隠し味だったのか。確かに、海と俊の思いは、二人だけに閉じていない。「出生の秘密」というベタベタなネタの脂味を消したのは、「人と人がつながっていく、その時にある思い」の純粋さ。それがベースにあるので、この作品は世代をこえ、時代をこえて人の心を打つのだ。
「一枚の油絵」は、宮崎駿の発案だった。イタリアの未来派の画家、ウンベルト・ボッチョーニの作風を参考に、ジブリの美術スタッフが描いたそうだ。ビジュアルガイドに印刷された絵を見ると、あらためて、力のある良い絵だと思った。この絵の発案と、主題歌「さよならの夏」の採用と、脚本の原案、これらが宮崎駿の仕事。それをもとに、脚本家、監督、キャラクターデザイン、作曲家などのスタッフが、チームとして良い仕事をした。宮崎駿は、あちこちに口出しをするので有名で、そのためにジブリからは若手が育たないと言われてきた。今回は、吾朗監督がチームをうまく動かしたようだ。キャラクターデザインを担当した近藤勝也さんが、「アニメーターとして一番良い仕事の仕方だったと思います。・・・演出面は監督が、絵についてはキャラクターデザインが責任をもって詰めていく。・・・一から演出と作画で相談しながらキャラクターを描いて、ここまで絵を作る立場を貫徹した作品は初めてだったので、その意味で理想の仕事に近いものでした」と語っているのが印象的だった。
音楽に関しては、作曲を担当した武部聡史さんが、「今回は登場人物の心情に寄せずに、作品のもつ時代背景や学校のムード、コミュニケーションの感じにフォーカスを当てています」と語られており、やっぱりそうかと思った。武部さんはその理由として、挿入歌「上を向いて歩こう」とのバランスをあげられているが、主題歌「さよならの夏」とのバランスも当然考えられたはずだ。
主題歌「さよならの夏」を歌った手嶌葵の歌も、すばらしい。考えてみれば「テルーの歌」でのデビューから5年。その間、歌手としてのキャリアを積んできたのだ。寂しさ、せつなさを表現しながらも、「私は頑張っているよ、大好きだよ」という前向きなメッセージをこめて歌ったそうだが、その思いが伝わる歌になっている。海・俊の純粋さへの心地よい余韻が、「さよならの夏」への余韻と重なって、深く、長く残る。映画のシーンと歌とをふっと思い出して、幸せな気持ちにひたれる、そんな素敵な映画に仕上がっている。