西欧的自然観と日本的自然観

1月7日に環境省「次期生物多様性国家戦略研究会」第一回が開催され、「2050年の自然との共生の実現(案)」に関する議論が行われるそうです。

この研究会に先立ち、GFBさんは「里山ナショナリズムの源流を追う 21世紀環境立国戦略特別部会資料から」を公表し、「日本人は昔から自然と共生してきた」という、これまでの政府の環境政策文書に繰り返し書かれてきた見方に疑問を提起されています。

 

私は、湯本貴和さんを代表とする総合地球環境研究所プロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」(2006-2010年度)に参加し、「日本列島では生物資源の持続的利用も、その破綻もあった」ことを明らかにする研究に貢献しました。湯本プロジェクトの成果として刊行された『シリーズ日本列島の三万五千年史』の第一巻に書いた以下の論考は、次期生物多様性国家戦略研究会の委員の方々にぜひ読んでいただきたいので、5節「西欧的自然観と日本的自然観の違いとその意義」をここに転載します。

矢原徹一(2011)人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓 湯本貴和・松田裕之・矢原徹一(編)『環境史とは何か(シリーズ日本列島の三万五千年史ー人と自然の環境史1)』pp. 75-104 より抜粋

5 西欧的自然観と日本的自然観の違いとその意義

 産業革命以後の近代世界ではさまざまな環境問題が顕在化した。このような環境問題の背景に西欧的自然観があるとしばしば指摘されている。この見解においては、日本的(あるいはアジア的)自然観をより環境調和的なものとみなすことが多い。確かに日本社会には自然との共生を尊ぶ伝統的自然観があり「自然共生社会」という日本政府の目標設定は伝統的自然観に立脚している。最後にこのような伝統的自然観が自然保護に果たす役割について考えてみたい。

 まず西欧的自然観と日本的自然観がどのように異なり、そしてその違いがいつ頃なぜ生じたかについて考えてみよう。私は哲学や社会科学の専門家ではないので、哲学者や社会科学者によって書かれたいつかの文献を参照しながら考察を進めることにする。以下に紹介する文献は、経済学者の中谷による著作、政策科学者の深谷・桝田による論文、および西欧的自然観とアメリカ先住民の伝統知に関するピエロッティとワイルドキャットの英文総説である。

 西欧的自然観について、経済学者の中谷は以下のように述べている。「自然を管理し、飼い慣らし、征服することが神から人間に与えられた使命であると考えるのがキリスト教であり、こうした思想を『スチュワードシップstewardship』と言うが、こうした自然観があったからこそ近代西欧社会は世界の覇者となりえたと言っても過言ではない。なぜか。それは自然への恐怖心がなかったからこそ、自然を客観的に、科学的に分析することが可能になり、近代科学革命が起こったという事情があるからである」。

 深谷・桝田によれば、このような西欧的自然観が成立したのは中世であり、西欧社会でもギリシャ・ローマ時代の自然観には、創造主と被創造物の区別はなく、神・自然・人間の一体性が見られた。たとえばアリストテレスは自然を「自分自身のうちに運動の原即をもつもの」と述べているが、ここでの自然とは人間と対峙するような存在ではなく、むしろ人間は自然の一部であると考えられていたという。その後17世紀前後の中世キリスト教社会において、人間は神のために存在し、自然は人間のために存在するという思想が生まれた。デカルトやフランシス・ベイコンはこの思想の推進者であり、デカルトは自然と人間を分離する二元論を唱え、フランシス・ベイコンは自然は神から人間に贈与されたものであり、自然を支配するのは人類の権利であると主張した。「こうした機械論的自然観や自然支配の思想こそが近代文明の根幹を支えてきたといっても過言ではないだろうと深谷・桝叫は述べている。

 一方、ピエロッティとワイルドキャットは、西欧社会の自然観には二つの異なる思想があると指摘している。ひとつは利用主義(extractive approach)であり、自然は経済的価値を持つものと考える。これは、今日の「賢明な利用」につながる考え方である。もうひとつは保護主義(conservationist approach)であり、自然は人間の干渉から守られなければならないという考えである。これは、合衆国の原生自然保護法(US Wilderness Act)を支えている考えだという。このように、二つの異なるアプローチを区別したうえで、「見かけ上はさまざまだが、西欧の自然観には、西欧哲学のルーツに由来する共通性がある。アリストテレスであれ、デカルトであれ、カントであれ、人間は自然から自立し、自然をコントロールするものと見なしている」と述べている。

 アリストテレスの自然観に関する評価は、深谷・桝田とピエロッティ・ワイルドキャットで異なっている。どちらの評価が妥当かを正確に判断するだけの知識は私にはない。ただし、「nature」の語源にあたるラテン語の「natura」は,人間・自然を問わず、生まれたままのものを指す言葉だった。これと対をなす「cultura(cultureの語源)」は、「natura」を耕したものを意味し、やはり人間・自然を糾わずに使われた(人間に対して用いられた場合、「cultura」は誕生後に学ぶものを指す)。現在でも英語の「nature」「culture」には、「自然」「耕作」という意味に加えて、「性質」「文化」という意味がある。ラテン語の「natura」、「cultura」の用法は、キリスト教以前の西欧世界において、自然と人問がより一体のものとしてとらえられていたことを示唆している。

 「人間は自然から自立し、白然をコントロールするもの」という西欧的自然観はおそらくアリストテレスの時代からその萌芽があったが、創造主と被創造物を明確に区別するキリスト教の世界観がそれを強化したのだろう。そして、デカルトやフランシス・ベイコンがこの自然観にもとづく思想・哲学を発展させ、今日に至る西欧的自然観を確立したと考えられる。
 このような西欧的自然観は、「自然を支配するのは人類の権利である」という自然支配の思想だけでなく「自然を保護するのは人間の責務である」という自然保護の思想を発展させる礎にもなった。「スチュワードシップ」(受託責任)という考え方を背景として、今日の自然保護政策につながる2つのアプローチ(利用主義と保護主義)が発展したのである。
 一方の日本的自然観について、深谷・桝田はそのルーツは中国にあると指摘している。 日本語の「自然」という言葉は中国語が移入されたものであり、もともとは「自分のままの状態」を意味した。自然界の森羅万象は、「自然」 (ツーラン) ではなく、「天地」 や「万物」 とよばれた。日本で最初に「自然」という言葉が使われた『風土記』(紀元前八世紀頃) でも、「自然に」が「おのずからに」と訓じられており、やはり状態を指す表現だった。その後仏教が伝来すると、「自然」は「おのずから」だけではなく「じねん」や「しぜん」と読まれるようになり、あるがままの状態をよしとする思想 (親鸞の「自然法爾」など)に結びついた。その後、江戸期に至って、安藤昌益が森羅万象を意味する名詞(「nature」にかなり近い意味)としてはじめて「自然」を用い、独自の自然哲学を発展させた。「nature」の訳語として「自然」 が用いられたのは、蘭日辞書『波留麻和解』(1796年)が最初であるという。

 このように、「自然」という言葉はもともと対象世界ではなくあるがままの状態をあらわすものであり、この言葉を「nature」の訳語として用いた背景には、あるがままの状態をよしとする東洋思想があった。この点で、日本的自然観は西欧的自然観とは確かに異なるものだと据えられる。このような日本的自然観について考察した寺田は「日本人は、人と自然は合わせて一つの有機体であるという自然観を有しており、このような自然観があるからこそ自然科学の発展が遅れた」と述べている。しかし、寺田に代表されるこれまでの議論は、定量的な分析にもとづ-くのではなかった。
 深谷・桝田は、言葉の使い方に関する定量的分析手法(スクリプト分析法)を用いて、現代日本人の自然観を調査した。すなわち、新聞の投書欄から「自然」を含む投書のテキストデータを集め、その用法を集計した。その結果、以下のような傾向が浮かびあがった。
(1)「自然は/が〜」の後には、「ある」「残る」といった存在表現が使われる場合が多い。これに次ぐ頻度で、「失われる」「壊される」などの受動系表現、「消える」「戻らない」などの自動詞表現が、いずれも否定的な文脈で使われている。
(2)「自然を〜」の後には、「愛する」「守る」などの愛護・保護行為をあらわす表現が使われることが多い。次いで「破壊する」などの破壊行為をあらわす表現が使われる。
(3)「自然に〜」の後には、「囲まれる」などの受動系、「対する」などの対面系、「親しむ」などの情動系の表現が多い。
(4)「自然で〜」という用法は見られない。
自然を主語とする表現では、「ある」「残る」といった存在表現が多いことから、現代日本人が自然を自律的存在と見なしていることがわかる。自然を動作の対象とした場合、「自然を愛する」「自然に囲まれる」など、自然に対してそのままの状態で接する表現が多い。「自然を破壊する」などの改変行為をあらわす表現は、どれも否定的な文脈で語られていた。また第四の点から、日本人は「自然」を動作が行われる具体的場所として表現しないことがわかる。この点は、〝in nature″という表現を常用する英語とは対照的だ。

 このような分析にもとづいて、深谷・桝田は現代日本人の自然観について、「自然を自律性を持つべきものととらえ、また一体感を感じている一方で、我々は自然を対象化・客体視している」と結論している。自然を対象化・客体視することは、自然を利用するうえでは不可欠であり、『農業全書』に代表される江戸農学発展の背景にもこのような態度があった。寺田の主張は、日本的自然観の一側面を強調しすぎているように思う。

 日本的自然館については、深谷・桝叫とは違った視点からの議論もある。中谷は日本的自然観が「本地垂迹説」(神道と仏教の融合を正当化した考え)によって確立されたと見なし、以下のように主張している。「この神仏を融合する日本独自の思想によって、日本人が古代から抱いてきた素朴な自然崇拝が本格的に日本文化の根本に位置するようになった。なぜならば、日本は神国であると同時に仏国土であるがゆえに、日本では道ばたに生えている名もなき草にさえ神性があり、仏性があると信じられるようになった。それはまさに『山川草木悉皆仏性』あるいは『草木国土悉皆成仏』という言葉で表現されている。だから、森を人間の都合で伐採したりすることは罰当たりなことだとされた。森に暮らす鳥の鳴き声、虫の音は、そのまま人間の成仏を祈るお経であると信じられた」。ただし、このような自然観だけで自然が守られたわけではなく、「日本人もまた生活の必要上、樹を切り倒していたわけであるが、そうやって樹を伐った後を放置するのではなく、ちゃんと植林をして地域共有の 『里山』として維持していかねばならないというルールを持っていた。なぜなら、稲作を行ううえで、保水機能のある里山を持つことが不可欠だったからである」とも述べている。中谷の議論は、もともとは安田や梅原によって主張されたものである。中谷は(安田著)『蛇と十字架』を引用し、「キリスト教のような一神教が世界に普及したことで、人間と自然の関係が根本的に変わったことをさまざまな実例を通じて立証している」と述べている。梅原は天台仏教の『草木国土悉皆仏性』という思想は日本仏教独日のものであり、人間中心主義の西欧近代思想とは異なり、自然中心の世界観だと主張した。

 さて、このような日本的自然観は、はたして日本独自のものだろうか。ピエロッティとワイルドキャッツは、アメリカ先住民の伝統的生態知(traditional ecological knowledge)について検討し、それが「人間は自然とつながっており、人間から独立した自然などないと考える」自然観に立脚していると指摘した。言うまでもなく、この自然観は「日本的自然観」と通じるものである。アフリカの伝統的社会にも、類似の自然観がある。おそらく、人間と自然を一体のものと見なす考えは、約5.2万年前にアフリカを出て世界に広がった旧石器時代のヒト社会に由来する、世界共通の祖先的思想である。中世キリスト教社会においてこの考えが大きく修正され、自然と人間を分離する二元論が確立された。ただし、自然を対象化し、客体視する考えは、現代日本人にも広く見られる。そのルーツは、主要には明治期における西欧思想や西欧近代科学の導入にあるが、江戸時代において発展した日本独自の農学においても、自然を対象化し、客体視する考え方が採用されている。

 中谷は市場万能主義的な考え方の背景に西欧的自然観・価値観があり、資本主義が直面している課題を克服するうえでは、自然と人間の共生を前提とする日本的自然観・価値観を大切にする必要があると主張している。このように、現代社会の諸課題の原因を西欧的自然観・価値観に求め、それに対置する形で日本的自然観の意義を重視する考えは、安田や梅原の主張にも見られる。しかし、果たして日本的自然観は、日本の自然環境を守るうえで重要な役割を果たしてきたと言えるだろうか。

 ダイアモンドは、日本の農耕社会が長期間持続した理由を考察し、森林の再生が速いという自然条件の強みに加えて、ヤギやヒツジなどの草食動物による摂食圧が小さかったこと、豊富な魚介類が利用できたためにタンパク質・肥料供給源としての森林利用圧が小さかったこと、政治的に安定した徳川幕府の下で長期的な見返りを期待できる状況があったことを、持続可能性の主要な理由にあげている。そして、「江戸時代中・後期の日本の成功を解釈する際にありがちな答え、日本人らしい自然への愛、仏教徒としての生命の尊重、あるいは儒教的な価値観は早々に退けていいだろう」と述べている。このように日本的自然観の価値を否定されるのは心地よくはないが、「これらの単純な言葉は、日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに、江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし、現代の日本が海洋及び他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ」という指摘は重要である。

 ダイアモンドや白水が指摘しているように、戦国時代や江戸時代初期には、日本の森林はかなり荒廃した。今も昔も戦争は巨大な環境破壊であり、戦国時代に繰り返された戦の下では、日本的自然観は環境破壊を防ぐうえで無力だったと言ってよいだろう。また、江戸時代初期には、まだ長期的視野で森林を育てる技術が発展していなかった。この時代の経験から学び、育林・管理技術を発展させたことが、江戸時代の森林を持続させた重要な要因だと考えられる。宮崎安貞が『農業全書』において、持続可能な森林利用を支える育林技術を記述したことは、すでに述べたとおりである。なお、『農業全書』は百姓(農民)への技術指南書としで編集されたものである。江戸中期に、農民の一部が『農業全書』を読み、長期的判断を可能にする知識を身につけていたことは、注目に値する。このような知識は、農民が環境保全に対する意思決定を行ううえで、役立っただろう。

 日本的自然観と西欧的自然観を対置する主張においては、自然保護における自然観の役割を過大評価するとともに、両者の共通性や補完性を過小評価しているように思われる。自然と人間を一体のものと見なす自然観は、おそらく旧石器時代以来の伝統社会に共通するものである。ラテン語の「natura」と中国語の「自然 (ツーラン)」 とは確かに異なるが、「生まれたまま」という考えと「自分のまま」という考えには、相通じるものがある。中世キリスト教社会において確立された西欧的自然観の下でも、自然は開発されるだけでなく、保護もされた。今日の自然保護政策につながる二つのアプローチを発展させたのは、西欧社会だった。利用主義と保護主義という二つのアプローチは、もともとは自然と人間の二元論に立脚しているが、両方を統一的にとらえる考えは西欧社会において広く支持されつつある。ピエロッティとワイルドキャッツは、アメリカ先住民の伝統知について、利用主義と保護主義の両方の要素を持つ第三の選択肢だと指摘し、その価値を高く評価している。

 「スチュワードシップ」 (受託責任) と「自然共生」は、持続可能な自然利用を追求するうえで、ともに有効な据え方である。私たちは、日本的自然観と西欧的自然観を対立的にとらえるのではなく、両者の補完性に注目すべきだろう。そしてこのような自然観を現実に生かすうえでは、長期的判断を可能にする科学的知識が欠かせない。たとえば徳川幕府が長期的視野で森林を管理できた背景には、江戸農学の発展があったのである。