「里山ナショナリズムの源流を追う」へのコメント

GFBさんの力作「里山ナショナリズムの源流を追う 21世紀環境立国戦略特別部会資料から」がnoteに公表されました。

https://note.com/gfb/n/n480031b828bc

この記事を読んでまず気づかされたのは、私が政府の政策にコミットする機会はまったくなかったこと。私は鷲谷さんと共著で「保全生態学入門」を書き、環境省レッドリスト作成に深く関わり、CBD COP10に向けて環境省に協力してプレ国際会議を開催したり、愛知目標策定に向けての科学外交に関わってきました。渡辺綱男さんとも何度もお目にかかっています。鷲谷さんが委員で加わっているから、分野のバランスを考慮して、私は委員からはずされた、ということかもしれません。鷲谷さんが、政策と関わる「汚れ役」は自分が引き受け、私には研究面で頑張ってもらおうと配慮されたのかもしれません。また、私は鷲谷さんより一回り若いので、年齢的な理由でいろいろな委員からはずれたのかもしれません。ともあれ、見事に政策決定ラインからはずれてきたことを、強く自覚させられた記事でした。

GFBさんのnoteの記事では、湯本貴和さんがリーダーをつとめられた総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」(2005~2011年)との関係で、何度か私の名前が登場します。このプロジェクトで私は、松田裕之さんとともに、アドバイザー的な役割を担いました。GFBさんはこのプロジェクトを、<「賢明な利用」が本当に行われてきたのか、すなわち「日本人は自然と共生してきたか」について、批判的に検証したプロジェクト>だと紹介されています。この紹介は的確です。日本人の自然観や過去の所業を根拠なく美化する考えを事実にもとづいて批判的に検証しようという方向性は、湯本さん、松田さんと私の共通認識でした。ただし、<プロジェクト全体として梅原・安田らの「森の思想」の打破をひとつの目的としていたことが伺える>という理解は事実とは異なります。5年間のプロジェクトを通じて、梅原・安田らの「森の思想」が議論されたことは一度もないと記憶しています。湯本プロジェクトでは、思想を議論したことはほぼありません。

自然再生事業指針(松田・矢原ら2005)に書いた以下の文章が、私と松田さんの共通認識であり、湯本さんもこの点を了解されていたはずです。

自然再生に関連する諸問題の中には、科学的(客観的)に真偽が検証できる命題と、ある価値観に基づく判断が混在していることに注意すべきである。生物多様性が急速に失われていると言う現象は客観的に証明できる命題である。一方、自然と人間の関係を持続可能な関係に維持すべきであるという判断は特定の価値観に基づいており、客観的命題ではない。このような、持続可能性を目指すという価値観を前提として、その目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である。
 保全生態学が前提とする価値観については、必ずしも社会全体の合意を得ているわけではない。人間がどのような形で持続可能に自然を利用していくかについては、科学的に唯一の解を決めることはできず、合意形成というプロセスを通じて初めて、社会的な解決をはかることができる。このような合意形成のプロセスにおいて、特定の価値観に基づく目的が現実的に達成できるかどうか、その目的がより上位の目的と整合性があるかどうか、その目的を達成するにはどのような行為が必要か、などの問題については、科学的に検証することが可能である。このような問題を科学的に検証し、関係者に判断材料を提供し、合意形成に資する客観的な情報提供を支援することが生態学の役割である。

自然再生事業指針は以下のページで読めます。ぜひご一読ください。

http://ecorisk.ynu.ac.jp/matsuda/2005/EMCreport05j.html#P9

 思想は価値的命題であり、思想の違いは「打破する」ことでは解決できず、合意形成(あるいは妥協)による解決しかない、というのが3人の共通認識だったと思います。これは、安田講堂事件や浅間山荘事件などを中学・高校時代にテレビで見て育ち、紛争後の大学に進学した私たちの世代に共有された、思想的対立回避のための教訓です。湯本プロジェクトの狙いは、過去の日本における自然利用には成功例も失敗例もあることを事実として示し、どのようなときに成功し、どのようなときに失敗したかを比較し、「合意形成に資する客観的な情報提供」を行うことにありました。

 GFBさんは<『第1巻 環境史とはなにか』「第4章 人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓」の冒頭で矢原徹一は、「21世紀環境立国戦略」について「持続可能な社会に向けての私たちの課題をわかりやすく整理している」と評している。(中略)「日本的自然観は環境破壊を防ぐうえで無力だったと言ってよい」と断じ、梅原猛安田喜憲の主張を「ひとつの主張であって、日本人の自然観を必ずしも客観的に表現していない」と評している。しかし、その「21世紀環境立国戦略」が、梅原や安田らの説の影響を受けている。>と書かれており、この文からは私が「21世紀環境立国戦略」について「持続可能な社会に向けての私たちの課題をわかりやすく整理している」と評したことに対するややネガティブなニュアンスが読み取れます。私の「21世紀環境立国戦略」についての評価は、低炭素社会、循環型社会、自然共生社会という3つの社会ビジョンの提案に関するもので、その背景にある特定の思想を肯定も否定もしていません。低酸素社会、循環型社会、自然共生社会という3つの社会ビジョンは、梅原や安田らの思想がなくても成立します。科学者としてやるべき仕事は、思想に対して思想で論争を挑むのではなく、客観的命題に関する事実を提示し、事実にもとづかない思想的主張の範囲を狭めることだと考えています。

 自然共生社会については、私は国際発信の点で貢献しましたが、これについて書くとさらに長くなるので、次回にあらためて書きます。