GEO BON Conference初日終了

今日は、GEO BON Draft Concept Documentの説明と質疑応答。Georgina MaceがScientific issuesについての説明のときに、ボランティアによる生物多様性モニタリングの先進例として、日本の植物RDBの取り組みを紹介してくれた。休憩時間やレセプションで、何人もの参加者から、賛辞や質問を受けた。論文が出版されれば、かなり大きな反響があるものと確信した。草稿はできているので、今回のConferenceの議論を考慮に入れて改訂し、帰国後できるだけ早く投稿にこぎつけたい。
参加者名簿には98人の名前がリストされている。このうち、アジアからの参加は7名(タイ3名、フィリピン2名、イラン1名、そして私)。比率は1割以下であり、アジアのプレゼンスが低いと思う。世界の生物多様性の約3分の1がアジアにある。もう少しアジアの参加者比率を高くしたいものだ。
タイ北部の動植物のニッチモデリングを研究しているカセサート大学の研究者や、フィリピンのAsean Centre for Biodiversityの研究者と面識ができたのは大きな収穫である。アジアの生物多様性観測ネットワークを構築するうえで、有力な人脈を得ることができた。
休憩時間やレセプションを利用して、日本にはstewardshipに相当する概念・言葉がないという話をして、キリスト教的自然観とアジアやnative Americansの自然観との違いについていろいろな人に意見を聞いた。
やはり、stewardshipはキリスト教の影響下で成立している概念である。キリスト教の教えに従えば、自然は神によって、人間のために創造された。したがって、自然は、人間が利用する対象であり、人間には自然を適切に管理する義務がある・・・このような考えがキリスト教的自然観の基本にある。
ガーナからの参加者から、アフリカにもstewardshipに相当する概念・言葉がないと聞いて、意を強くした。
「アジアやnative Americansの伝統的自然観では、人間は自然の一部であり、自然は管理する対象ではない」という説明には、欧米の多くの参加者が納得してくれた。
一方で、まったく新しい発見があった。話をした全員ではないが、欧米からの参加者数名から、神は人間ひとりひとりに宿っているという考えを聞いた。しかし、考えてみれば、日本では神様は木にも草にも石にも宿るが、多くの人間には宿らない。人間のまま神であるのは、「現人神」であるかつての天皇だけだ。仏もまた、現世の人間には宿らない。仏の世界はあくまで彼岸にある。しかし一方で、草木には仏が宿る。つまり日本人は、自然と人間をはっきりと違う存在として区別しているのである。この自然観は、native Americansのそれとはかなり異質なのかもしれない。
明日はワーキンググループに分かれての討論。私はScientific issuesに関するワーキンググループに参加する。Genes, Species, Ecosystemという3つの階層の生物多様性をいかに観測するかという点について議論する。Draft Concept DocumentではGenesに関する記述が弱いので、私はこの点についていくつか意見を言う予定。