リトル・フォレスト

さしたるドラマがあるわけでもないこの映画は、見る人を選ぶだろう。私はと言えば、護岸されていない小川が流れる山村の風景にまず魅了され、オオウバユリが咲き並ぶ道を自転車で走り降りる疾走感に心をはずませ、ストーブの置き火で焼かれたおいしそうな自家製のパンに思わず身を乗り出し、そんな山村での暮らしを送る無愛想な主人公いち子(橋本愛)のまだ描かれていないドラマに興味を惹かれ、最初の10分程度ですっかりこの映画の世界に入り込んだ。Dish 1の自家製パンに続き、Dish 2, Dish 3・・・と主人公が料理を作るシーンが続く。クローブなどを煮込んで作る自家製ウスターソースはかなり手が込んでいて、いろいろ工夫の余地がありそうで、私も作ってみたい、とか、東北のミズ(正式にはウワバミソウ)は植物体が大きくて、食べ応えがあってうらやましい、などと考えながら、ひとつひとつのDishが出来上がっていく映像を楽しんだ。植物と料理が好きな人には、たまらない映画だ。
そしてこの映画は人間ドラマでもあるのだが、今回上映された「夏・秋編」では、伏線しか描かれていない。ヒロインのいち子は、一度は都会に出たものの、恋人と別れ、そしてまだ描かれていない何かから逃げて、生まれ故郷の山村に戻ってきた。一方で、やはり都会から戻ってきた分校の後輩ユウ太は、いち子とは対照的な生き方をしている。ユウ太は、「自分が(肉となる動物を)殺したこともないのに、殺し方に文句を言う、都会のうすっぺらな人間」を見て、自分のリアルな経験にもとづいて生きるために、山村に戻ってきた。彼のUターンは、積極的な選択なのだ。しかし、いち子は何かから逃げている。この映画には、もうひとり、逃げずに何かを追いかけている人物が登場する。いち子を残して家を出て、音信不通の状態にある、いち子の母だ。その母からの手紙が届いたシーンで、「秋編」は終わる。2月に公開される「冬・春編」では、母が山村の家に戻り、そして母の生き方を知ったいち子が、決着をつけるために都会に戻っていくのではないか。次々に登場する料理のシーンは、いち子が自立に向けて力を蓄える歩みを描いているのだと感じた。たとえば青菜の炒め物。簡単な料理に思えるが、なんど作っても母の炒め物の食感に及ばない。あるとき、セロリのすじ抜きをしていて、青菜もすじ抜きをすれば良いのではないかと気づく。やってみると、正解だった。青菜を炒めるだけの母をずぼらだと思っていたが、「ずぼらなのは私の方だった」。こうやって少しずつ、いち子は母の後を追いかけている。
料理の食材は植物が多いが、魚とアイガモも登場する。いわなの頭をたたいて殺したり、櫛を口から尾びれまで通すシーンはリアルだ。アイガモをしめるシーンでは、さすがに首を落とす描写はないが、ゆでて羽をむしる過程はしっかりと描かれている。私は子供のころ、かわいい雛から天塩にかけて育てたニワトリを、祖父と一緒にしめたことがある。首を落とされ、ゆであげられた「愛鶏」の羽根をむしるのはつらかった。その光景は、いまでもくっきりと覚えている。当時はつらかったが、いまとなっては、そういう経験を持っていることは、自分の財産のひとつだ。「自分が殺したこともないのに・・・」とユウ太が批判する都会の生活の課題を、リアルな経験にもとづいて考えることができる。私はみんながそういう経験をすべきだとは思わない。しかし、食べることが「いのちを頂いている」ことだという事実に向き合う想像力は、誰にも必要だと思う。そのような想像力を養ううえで、この映画や「銀の匙」などの役割は大きい。
一方で、この映画は山村の自然の圧倒的な癒し感を、美しい映像で繰り返し見せてくれる。幸いにして、この映画で描かれた風景は、日本各地にいまでも残されている。そこでの暮らしは不便だし、体力がいるし、なにより時間をとられる。娯楽施設もない。しかし、そういう山村の暮らしだからこそわかることもあり、山村ならではの価値がある。そういう価値と、都会での便利な暮らしの価値がうまく共存する社会への希望を感じながら、この映画を楽しんだ。
自然と、食事と、そして人間が好きな人には、おすすめの名作だ。「冬・春編」が待ち遠しい。