脚本コクリコ坂から

東京駅八重洲口の書店に立ち寄ったところ、角川文庫の一冊として脚本が出ていた。買いやすい価格(450円)なので、即決で購入。奥付を見ると、発売は6月25日。上映前から脚本を売り出すとは、なんと思い切りの良いことか。
脚本を読む興味は、駿さんがどこまで作り、吾朗監督が何を付け加えたかという、その一点にある。
映画のセリフや場面設定は、ほぼ脚本どおりだった。ただし、映画では3つほど、かなり重要な変更が加えられていた。
第一に、脚本は、俊の父親が乗る揚陸艦が、水柱に包まれ、大爆発するシーンから始まっている。映画では、終盤にさしかかる場面で、徳丸理事長と海との会話の中で、回想としてこのシーンが使われている。脚本のほうが、観客を映画にひきこむ力は圧倒的に強いだろう。しかし揚陸艦の爆発シーンは、映画全体のテーマとはかなり異質だ。このシーンを冒頭に置けば、テーマにはふさわしくない重苦しさが観客の心をしめてしまうだろう。また、この劇的なシーンを引き受けて、物語を終わらせるシークエンスは、脚本にはない。風呂敷を広げながら、最後にきちんとたたまない、駿さんの最近の悪癖が、ここにも表れているように思う。結論として、吾朗監督の変更は、とても良かったと思う。
第二に、海が俊に対して「お父さんが代わりに風間君を送ってくれたんだと思うことにしたの。・・・」と告白するシーンが、脚本では母親から「真相」を聞いた後に置かれているのに対して、映画ではその前に置かれている。その結果、上記の告白のインパクトは、映画のほうがはるかに強いものになっている。また、海が母親から「真相」を聞いた後の、海「でも、もしも・・・」、母「会いたいわ・・・」という会話の重みが、まったく違ったものになっている。この変更も、脚本より良い。
第三に、脚本はタグボートから海と俊が丘の上のコクリコ荘にたなびく旗を見上げ、笑顔を交わすシーンで終わる。「海は父を取り戻し、俊と帰るのだ。夕陽に輝く海は、広小路の絵に重なって−」これが脚本のエンディングだ。しかし映画は、コクリコ荘に戻った海が、翌日再び旗をあげるシーンで終わる。私はこの追加されたシーンがとても好きだ。
父を待ち続ける必要がなくなった海が、それでも旗をあげるのは、ひとつには父親に対する報告のためであり、もうひとつは、俊に対するメッセージを送るためだ。海は、前の日のできごとを思い出し、海と俊につながる3人の友情や、母親の思いに感謝をしながら、俊が乗るタグボートに対して旗をあげているのだろう。この物語のエンディングにふさわしいシーンである。
さらにこの物語上のメッセージに加えて、映画のエンディングには別のメッセージが隠されているように思う。脚本上のエンディングに相当する、海と俊のツーショットは、ラピュタのエンディングとそっくりだ。ジブリファンにはすぐにわかるこのカットを使い、しかしそこでは終わらずに、吾朗監督は上記のシーンを付け加えたのだ。ラピュタのエンディングに似せたシーンは、父親が作り上げた遺産を象徴している。そして吾朗監督は、父親の遺産に自分の努力を付け加えて、しっかりと引き継いでいくという決意を、海が旗をあげるラストシーンに込めたに違いない。
脚本を読んでみて、ストーリーを作り上げたのは駿さんだが、演出面では吾朗監督の貢献が大きいということが良く分かった。脚本は、私の予想と違って、場面設定とセリフに徹した正統派の脚本であり、駿さんの理想が書き込まれている「覚書」とはかなり異質だ。この点に関しては、脚本を担当した丹羽圭子さんの貢献が大きいようだ。角川文庫では、「『脚本コクリコ坂から』ができるまで」と題して丹羽圭子さんがあとがきを書かれている。このあとがきによれば、「それにしても、宮崎さんの考えはどんどん変わります。前回、熱く語っていた部分を、次には惜しみなくカット。もっと凄いアイデアが飛び出します。・・・」また、鈴木敏夫プロデューサーのあとがきによれば、この「凄まじい”朝令暮改”」のために、宮崎駿と組むはずだったシナリオライターは全員が姿を消していったそうだ。そして丹羽圭子さんが登場した。彼女のおかげでジブリは、ハウルやポニョとは違って、しっかりと構成された脚本を準備できるようになったのだ。
丹羽圭子さんの脚本では、心理描写は書き込まれていないし、場面間のつながりも詳しくは書かれていない。したがって、監督がきちんと演出をしない限り、脚本をなぞっただけでは映画にならない。駿さんのアイデアをもとに、丹羽圭子さんが構成した脚本を前にして、吾朗監督のストレスは相当なものだったようだ。「脚本は良かったが、演出がダメだった」と言われたくない、その一心で、必死になったと、吾朗監督は語っている。
宮崎駿さんなら、おそらくもっと上手に絵を動かしただろう。絵を動かすことにかけて彼がいかに天才的かは、「ポニョ」を観て良くわかった。「ポニョ」は、「ゲド戦記」で絵をうまく動かせなかった息子に対する、父親からの強烈なアンチテーゼだ。そして今回は、息子に良くできた脚本をつきつけた。アニメーションに生涯をかけてきた父親の、吾朗監督に対する要求は、半端なものではない。
吾朗監督は、絵を動かすことにかけては父親ほどの天才ではないし、また、おそらく高畑監督の影響で、動いている絵をみて何も考えずに楽しめればそれで良いのか、という疑問を抱いている。その疑問を抱きながら、吾朗流の演出を必死で模索した作品が「コクリコ坂から」だ。
おそらく成功のカギは、ヒロイン「海」の人物像をいかに作り出すかにあった。この課題については、キャラクターデザインを担当した近藤さんが、吾朗監督の思いを汲んで、見事な仕事をされたと思う。「耳すま」の雫とは違って、吾朗監督らしい、新しい魅力のあるキャラクターが生まれた。「雫」のほうが好みだという人もたくさんいると思うが、「海」のほうが素敵だという人もきっとたくさんいることだろう。「耳すま」の雫は、どんどん先にいってしまう聖司に対して、何とか自分の存在価値を見つけようと必死になる。その一生懸命さが雫の魅力だ。一方で、海はもっとしっかり者で、俊とははじめから対等だ。海の魅力は、俊に心を惹かれて俊に協力するプロセスにあるのではなく、亡き父親に対して旗をあげ続ける一途さや、コクリコ荘を切り盛りしながら学校に通う生活面での強さにある。この魅力を描くのは、「耳すま」の雫の場合よりもずっと難しい。実写なら俳優の演技力で表現できるが、アニメではそうはいかない。結局、一途さや生活面での強さを体現したキャラクターを作り出すしかない。吾朗監督は、この難題に応えることで、ひとつの山を越えたのだと思う。映画のヒロイン海は、ジブリ史上初の、リアルな魅力を持つキャラクターだ。これまでの、ファンタジー世界でアニメートされたキャラクターとは、一線を画した魅力がある。
駿さんが書いた「覚書」に、「脇役をギャグのために配置してはいけない」という文章がある。この文章は、「ゲド戦記」で脇役の描写が弱かった吾朗監督への、父親からの教育的指導だろう。結果として、「コクリコ坂から」の脇役陣はみな魅力的だ。ただし、登場人物が多い割に尺が90分と短いので、説明不足の感があることは否めない。2度見るか、あるいは脚本を読んでおくほうが、映画を楽しめるだろう。その点で、脚本を上映開始前に発売するという思い切ったプロモーションには、意味があると思った。ストーリー自体にとくに意外性はないので、結末を知ってしまうと感動が薄れるということも、あまりないだろう。ストーリーを知ったうえで、演出、映像、音楽を楽しむのも、この映画のひとつの観方ではないかと思う。
脚本ではあまり説明されていない場面間のつながりも、映画ではうまく補って描かれていると思った。たとえば映画では、カルチュラタンの掃除が進むにつれて、取り壊し反対に対する女子の支持率があがっていくというプロセスが、掃除のシーンのカットにガリ版刷り週刊カルチュラタンの記事を重ねて、うまく描かれていた。このプロセスの説明は、脚本にはない。カルチュラタンの蘇生を象徴する、時計台の時計が鳴るシーンも、脚本にはない。
コクリコ坂から」については、ジブリらしくないという意見もある。しかし、ジブリはつねに新しい領域に挑戦してきた。「ナウシカ」のあとに設立され、「ラピュタ」で評価を確立したジブリが、「トトロ」と「火垂る」を同時制作したときにも、やはりジブリらしくないという声があった。「コクリコ坂から」はファンタジー性を排して等身大の人物を描くという、ジブリの新しい挑戦だ。ハイジやコナン、ナウシカを経て、家庭を持ってからはラピュタ・トトロなどを子供と観ながら年齢を重ねた世代にとって、これは納得のいく挑戦だ。
そして、この映画の背景にある父親から息子への創作継承劇が、少なくともまずまずの成功を収めたことを喜びたい。次は駿さんが『超大作』を作るそうだが、吾朗監督がその制作に何らかの形で参加するのではないだろうか。ゲド→ポニョ→コクリコと続いた創作継承劇は、駿さんの『超大作』を経て、吾朗監督の第3作で、完結することになるのだろう。
なお、この記事を書くにあたり、のらねこさんのブログを参考にさせていただきました。

※この原稿を書いたあとで、昨日もういちど「コクリコ坂から」を観た。ストーリーが完全に頭に入っていても、予想どおり満たされた気持で映画館を出た。最初はハリポタ完結編を観るつもりだったが、疲れていたので映画館で方針を変更した。「コクリコ坂から」のほうが、癒される映画だ。観客の年齢層はやや高めだが、涙を流している子供たちもいた。