ダークナイト

ネタばれなしには書けないので、筋書きを知りたくない人は読まないように。
バットマンシリーズの最新作なのだが、タイトルにバットマンの名はない。このタイトルは、シリーズ中の一作ではなく、独立した作品であることを宣言している。
この作品で描かれているバットマンは、もはや正義のヒーローではない。ギャングと戦っているとはいえ、その手段は暴力的であり、法を犯している。このため、本人が特定されれば、犯罪者として警察に逮捕される存在として、描かれている。
さらに驚かされるのは、ジョーカーの設定である。ジョーカーは単なる悪ではない。バットマンが犯罪者を追い詰めれば追い詰めるほど、犯罪者は凶悪化していく。そして登場した究極の悪がジョーカーである。つまり、ジョーカーはバットマンが生み出した存在である。この設定が、合衆国によるテロとの戦いへの暗喩であることは間違いないだろう。
バットマンに追い詰められたギャングたちは、資金の半分でバットマンを殺してやるというジョーカーの誘いに乗ってしまう。それが悪夢の始まりだった。
ジョーカーは、バットマンが正体を明かして名乗り出なければ、市民をひとりずつ殺していくと宣言し、そして殺人を実行する。ここに至って、世論はバットマンを糾弾し、市民はバットマンよ、名乗り出ろと叫ぶ。
ジョーカーは、市民の集団心理を操作することに長けた人物として描かれている。そして、ジョーカーが仕掛けた罠によって、民主主義をになう市民がいかに脆い存在かが執拗に描かれる。
以上の設定だけでも十分におそろしいが、この映画に凄みを加えているのは、第三の主人公、デントである。彼は凄腕の検事であり、法律にしたがって犯罪撲滅をめざす正義のヒーローとして登場する。市民の糾弾によって心理的に追い詰められたバットマンは、デントに希望を託し、自ら正体を明かしてジョーカーに屈服することを決意する。しかし、デントは記者会見でバットマンの機先を制して、自分がバットマンであると名乗り出て、警察に身柄を拘束される。デントは、バットマンの危機を救うとともに、自らが標的となってジョーカーを誘い出し、壮絶なカーチェースの末に、ジョーカーの逮捕に成功する。
しかし、この時点でデントは、ジョーカーがしかけた罠にとらえられていた。ジョーカーは刑務所で取り調べを受けるが、その間にも警察内部の裏切り者を使ってデントと彼が愛するレイチェルをとらえ、遠く離れた別の場所に監禁し、時限爆破装置をしかけた。バットマンはジョーカーから監禁場所を聞き出すが、爆破の時間は迫っていた。「助けられるのはどちらか一人だ、さあ、どちらを選ぶ?」と笑うジョーカー。レイチェルはデントに愛されているだけでなく、バットマンの長年の理解者であり、バットマンがマスクをとる日が来たらという条件つきで、結婚を誓った相手でもある。バットマンそのレイチェルデントの救出を警察に委ね、自分はデントレイチェルの救出に向かう。【8/5注:レイチェルを救出に向かったのだが、バットマンが助けたのはデントだった。】
そして、デントもバットマンも、ジョーカーが仕掛けた心理戦の罠にとらえられていく。レイチェルとデントの運命は、伏せておきたい。
結末は、むなしい。「勝ったのはジョーカーだ」とつぶやくゴードン警部補市警本部長に対して、そうはさせないと全ての罪をかぶり、ダークナイト(闇の騎士)として去っていくバットマン
かすかな希望が描かれてはいる。ジョーカーが仕掛けた罠によって、囚人が乗ったフェリーを爆破するか、自分たちが爆破されて死ぬかという選択を迫られた市民が、多数決で「爆破」賛成を決めながらも、起爆装置のボタンを押せないというシーンである。
正義、信頼、愛、そのいずれにも絶対はないという非情な現実を執拗に描きながら、監督は一人ひとりのささやかな良心に、わずかな希望を託しているようだ。
しかしその良心を持つ市民も、集団と化したときには理性を失い、そしてその世論がバットマンを追い詰める。
私自身は人間にもっと希望を持っているので、この映画の描き方に共鳴するものではない。しかし、心理的ジレンマがいかに人間を追い詰めるかを描いた映画として、これは映画史に残る名作である。また、ジョーカー役のヒース・レジャーの演技は、すさまじい。まさに、鬼気迫る演技である。これが遺作となったそうだ。冥福を祈りたい。