映画「コクリコ坂から」への期待

ゲド戦記公開前に、次のように書いた(http://d.hatena.ne.jp/yahara/20060709)。

ゲド戦記」という大作を、ハヤオの後をついで作るということが、無謀なのだ。どうやっても、必ず酷評される運命にある。・・・むしろ、「ゲド戦記」後の次の作品こそが、吾郎新監督の真価をうらなうものになるだろう。その意味では、「ゲド戦記」があまり成功しすぎないほうが、リラックスできるかもしれない。

あれから5年。ついに、吾朗監督の第2作が完成した。
完成披露会見→http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/1107/02kokuriko_kh.html

ゲド戦記」を観て、吾朗監督はファンタジーよりも「等身大の人物」を描くほうが向いているのだろうと思った。「ゲド戦記」の失敗のひとつに、主人公を「等身大の人物」として描こうとしたことがある。原作の世界と監督の描きたいことに、ミスマッチがあった。

今回、すっかり親ばかになったと思われる父ハヤオが、息子に送った題材は、「等身大の人物」によるラブストーリーのようだ。これはきっと、正解だろう。この題材なら、吾朗監督の個性が生きるように思う。

ハヤオには、胸がキュンとくるようなラブストーリーへの憧れがあると思う。「ナウシカ」の制作を終えて失意の状態にあったころに、山小屋にこもって少女マンガを読みふけったエピソードを、20年ほど前にエッセイに綴っている(エッセイ集「出発点」所収)。そのときに読みふけった少女マンガこそ、今回の映画の原作、「コクリコ坂から」だ。その後、少女マンガを題材に、「耳をすませば」を制作したが、照れ屋のハヤオは、脚本を書いただけで、監督は故近藤喜文さんにまかせた(とはいえ、相当口を出した)。「耳をすませば」は良い作品だが、ファンタジー色が抜けておらず、主人公たちは、やや理想化されている。エンディングは、おとぎ話である。

吾朗監督なら、「等身大の人物」をもっとうまく描けるのではないか、そう期待している。

完成披露会見での鈴木プロデューサーの発言によれば、試写を観た父ハヤオは、「僕の作った俊はあんな不器用な男じゃない。あれじゃまるで吾朗だ」と語ったという。一方の吾朗監督は、以下のように語っている。

(駿の)シナリオの中の海ちゃんは、まさにポスターの中の海ちゃんだったなと改めて思ったんですね、理想の女の子なんだと。でも僕がやると、「理想の女の子」じゃなくて、どうしても「(その辺に)いそうな女の子」になると感じました。僕に向いているのは、そういう世界なんだろうと思います。

この作品は、期待しても良いと思う。