ベルリン写真紀行

ベルリンでの生物多様性シンポのあと、ベルリン自然史博物館をたずね、Christoph Hauserさん(DIVERSITAS bioGENESISコアプロジェクト科学委員)と、bioGENESIS国際プロジェクトオフィスに関する打ち合わせをしました。その訪問時に撮影した写真を以下に紹介します。まずは、ベルリン自然史博物館の玄関。

エントランスの展示は、やはり恐竜。私の視線は、右手奥の小部屋に。小部屋の入り口の上に、Archaeopterix(始祖鳥)と書かれている!

見ました。本物です。

次に感激したのは、タスマニアンウルフ。感動のあまり、少し手ぶれしてしまったのが、残念。

剥製用の目玉のカタログ。このような商売が成り立つところがすごい。

液浸標本庫。もちろん、非公開スペースにあります。

昆虫標本庫。10年間のBIOLOGプロジェクトでは、アフリカの昆虫相に関する本格的な調査が実施され、多くの標本が収集されたそうです。

館外のゴミ箱に、DDR旧東ドイツ、Deutsche Demokratische Republikの略称)の文字が。ここは東ドイツだったのです。

次は、ベルリン植物園へ。German GBIF NodeのBerendsohnさんが出迎えてくださいました。5時までにEUグラントの申請書を書き上げなければならないとのことでしたが、しばらくお話を伺うことができました。

ベルリン植物園には植物標本庫がありますが、大航海時代以来収集された膨大なコレクションの大半は、第二次世界大戦の戦火で焼失しました。植物学の歴史の中で、最大の惨事と言われています。写真は全焼をかろうじてまぬがれた古書。

しかし、フンボルトの標本を含むWilldenow collectionは、奇跡的に焼失を免れました。メインハーバリウムとは別のところに保管されていたらしい。

標本台紙に残されたフンボルト直筆のサイン。フンボルトのファンとして、感激の対面を果たしたました。近代地理学の父フンボルトは、アレクサンダー・フォン・フンボルトのはずなのに、イニシアルにはなぜかWの字が。ウィキペディアの解説を調べてみると、フンボルトの本名は、Friedrich Wilhelm Heinrich Alexander Freiherr von Humboldtでした。ヴィルヘルム・フンボルトはお兄さんの名前ですが、アレクサンダー・フォン・フンボルトにもWilhelmの名前があったとは。

フンボルトボンプランオリノコ川源流を調査したときの報告をまとめた本のひとつに、Atlasがあります。このAtlasには、採集した植物の垂直分布が図示されています。おそらく世界で始めて描かれた垂直分布地図でしょう。山の斜面に書かれた細かい文字は、採集された植物の学名。

最近になって、加藤竹斎が描いた日本の樹木の植物画つきの材標本が発見されたことを始めて知りました。特定の樹木種の材を四方に配置し、中央の板(もちろんその種のもの)に彩色画が描かれたユニークな標本。

「フシノキ」と記されている標本。

2つの木製ケースに収納されており、全部で50段以上あり、各段に4種ずつの標本が入っているので、200種以上の材と板の標本セットです。どのような経緯でベルリン植物園に届いたのかは不明とのこと。加藤竹斎は私が最初に勤務した東京大学小石川植物園が創設されたころ、伊藤圭介教授の指導のもとで植物画を描いた人物。小石川植物園後援会で出している絵葉書には、加藤竹斎が描いた彩色画が使われています。小石川植物園につとめた者として、不思議な縁を感じました。

帰路には、ライプティガー通りでバスを降りて、ホロコースト記念碑ブランデンブルグ門ウンター・デン・リンデンを通り、旧東ベルリンに位置するホテルまで歩きました。下の写真は、「ベルリンの壁」があった場所を示すプレート。

ホロコースト記念碑。

ブランデンブルグ門。

フンボルト大学の門の右手に置かれた、アレクサンダー・フォン・フンボルトの像。門の左手にはお兄さんのヴィルヘルム・フンボルトの像が置かれています。

西ベルリンを取り囲んでいた「ベルリンの壁」の位置をネットで検索してみたところ、「この地図」がいちばんわかりやすいものでした。ブランデンブルグ門からウンター・デン・リンデンを通る現在のベルリンの目抜き通り(地図でBerlinと書かれている付近)は、旧東ドイツだったのですね。