カンボジアの人口構成・30年史・日本の貢献

yahara2009-09-28

カンボジアで印象深かったのは、子どもや若者が多いことだ。カンボジア林野庁長官に、「子どもが多いですね」と申し上げたところ、「わが国の人口の半数は20才以下なのです」という説明があった。人口構成がそこまで偏っているとは予想していなかった。帰国してWikipediaを調べてみたところ、右図の人口ピラミッドが転載されていた(原典:World Population Prospects: The 2004 Revision)。確かにすさまじい偏りだ。この偏りは、20年前まで続いたポルポト政権下での虐殺がいかにすさまじかったかを物語っている。
カンボジアの歴史
によれば、「1975年〜1979年のポル・ポト時代の4年間は、中国の毛沢東主義を奉じた極端な農本主義政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺で100万人を超えるともいわれる大量の死者を出した。」
ベトナム軍がプノンペンを攻略し、親ベトナムヘン・サムリン政権が成立したのが1979年1月10日。私が大学1年生のときである。
ベトナム軍が撤退したのが、1989年9月。ちょうど20年前だ。このころから、出生率・死亡率が急速に回復したのだろう。しかし、ベトナム軍撤退後も内戦は続いた。パリ協定によって国連カンボジア暫定統治機構が設置され、内戦が終結したのは、1991年10月23日のことである。このときの、暫定統治機構事務総長は、明石康さん。1993年に暫定統治機構による総選挙が実施され、「カンボジア王国」が再出発した。日本は、1992年〜1993年にはPKO法に基づき日本初の要員派遣を実施した。色々と議論があったPKO活動だったが、「カンボジア王国」の平和的再出発に大きく貢献したことは確かである。その後日本は、カンボジアの復興に対して積極的に支援を続けてきた。今回も、ODA予算で作られた「きずな橋」を何回も渡った。このような継続的支援のおかげで、日本との関係はきわめて良好だ。
1997年には、FAOの指導・支援にもとづいて、カンポントム州に森林管理の基礎データを集めるための森林プロット(100mx100m)が、172箇所に設置された。そのうち32箇所の維持・再計測を支援してきたのが、九大森林計画学研究室のMさんだ。今回、Mさんのご案内でカンボジアを訪問したが、林野庁のスタッフの方々の信頼が厚い。この信頼を裏切ってはいけない。カンボジアでの研究基盤づくりにきちんと貢献することが大切だと思う。