英霊はなぜ仏様になれないのか

松岡正剛さんの千夜千冊に掲載される書評は、なかなか読み応えがあり、更新を楽しみにしている。単なる書評をこえて、あるテーマに関するレビューとしての厚みがある。また、松岡さん独自の視点が提示されているので、考えさせられることが多い。すでに千冊を越えているが、「遊蕩編」と銘打って更新を継続し、第1190夜を数えている。
さて、その第1190夜は、『国家神道』
第910夜の『神仏習合』第1185夜の『廃仏毀釈百年』とあわせて読むと、わが国における神様仏様のたどった歴史が概観できて、大変勉強になった。
先月に訪問した中国の杭州天目山には、禅源寺という寺院があった。山麓のホテルについてすぐに山に向かって道をたどると、やがて禅源寺に入り口の階段にたどりついた。苔むした階段のそばには、コンテリクラマゴケが群生していた。コンテリクラマゴケは中国南部が原産とされているが、九州では山間部の神社の参道にいけば、普通に見られる。私は、神道に結びついて日本にひろがったのだろうと、漠然と考えていた。しかし考えてみれば、神社は中国にはない。
ところが、天目山禅源寺の階段の周囲に見られる景観や植生は、九州の山間部にある神社の参道に見られる景観や植生にそっくりなのだ。何しろ、階段の両側は杉並木である。Cryptomeria japonicaではなく、Cryptomeria fortuneiという中国産の種だが、成木ではほとんど区別がつかない。若木は、枝が垂れるので、日本のスギとはかなり雰囲気が違う。柳杉という中国名は、この性質にちなんだものである。
景観や植生に見られる類似性の背景には、おそらく人間が関与した共通の歴史があったに違いない。そう思っていたところに、千夜千冊の3つの記事を読んで、思わず膝をたたいた。山間部にある神社の多くは、仏教と習合した歴史を持っていたのだ。
何しろ、全国4万あまりの八幡宮の総本山である豊前宇佐神宮は、八幡大菩薩として現れたと伝えられる応神天皇を祭っており、この八幡さまには、明治維新までは神様と仏様が習合していた。境内には弥勒寺もあった。
八幡さまと並んで日本に広くまつられている神様は、お稲荷さまだろう。京大時代に植物採集に出かけたことのある稲荷山は、伏見稲荷の神域だが、東寺造営のためにこの神域の木材が使われたという歴史がある。おそらく神域ゆえによく保存された巨木があったのだろう。これに目をつけたとある策士が、一計を案じ、稲荷神を東寺の守護神にすることで、神域の巨木を東寺造営に利用する道を開いたようだ。その後、「東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに稲荷信仰が全国に広まることとなった」とWikipediaの解説にある。
かくもさように、日本では神様仏様が習合していた。そのことは、ある程度知っていたが、この神様仏様の仲が、明治維新前後の「神仏分離」によって徹底して引き裂かれ、その結果として成立したのが国家神道であることは、不勉強にして知らずにいた。
第1185夜の『廃仏毀釈百年』には、「神仏分離」という仏教弾圧によって、多くの寺がいかに悲惨な運命をたどったかが紹介されている。少し長くなるが、ポイントを引用しよう。

慶応3年3月17日の「神祇事務局より諸社へ達(たっし)」で、「このたびの王政復古の方針は悪い習慣を一掃することにあるので、全国各地大小の神社のなかで、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと唱えて神社の儀式を行っている僧侶に対しては復飾(還俗)を仰せつける」という通達をした。(中略)
激震が走った。さっそく動き出すものがいた。4月1日、比叡山麓坂本の日吉(ひえ)山王社を、突如として100人をこえる武装した一団が襲った。(中略)「神威隊」と名のる者50名、人足50名、さらに日吉社の社司・宮仕20名が加わって、どかどかと土足で本殿に乱入し、安置されていた仏像を壊し、仏具・経巻のたぐいを次々に放り出して焼き捨てた。(中略)
焼却された仏像・仏具・経巻は124点、掠奪された金具や調度は48点。「廃仏毀釈」の最初の断行の例である。リーダーは樹下茂国(じゅげしげくに)と いう日吉社の社司で、明治政府の神祇官の事務局の権判事に就いていた。(中略)
事態は一挙に加速する。さらに4月4日、4月10日、5月16日にも「太政官達」や「太政官布達」が出て、政府が社人と僧侶のあいだの私憤と紛擾にメス を入れることを予告し、「このたび全国の神社において神仏混淆は廃止になった」ということ、「仏教を信仰して還俗を承服できないものは神主として神に仕えてはならない」ということを申しのべ、加えて石清水・宇佐・箱崎などが八幡大菩薩の称号をつかっていることを禁止して、以降は八幡大神と称するように規定した。

廃仏毀釈百年』の著者によれば、宮崎県では延岡藩高鍋藩・飫肥(おび)藩で廃寺廃仏がまたたくまに断行され、有無をいわせぬ悲劇的な事態が雪崩を打って進行し、灰となった寺は南九州で一千寺におよんだそうだ。同様な事態が全国で起き、神権的国家神道システムが短期間で作り上げられた。神仏が習合していた寺院は、廃寺を避けるために、神だけを祭る神社に変わった。たとえば、石清水八幡は男山神社に、愛宕大権現は愛宕神社に、金毘羅大権現を祀っていた象頭山金光院松尾寺は金刀比羅宮に、竹生島弁才天妙覚院は都久夫須麻神社になったという。
その後、仏教界(とくに浄土真宗)からの反対の声におされて、明治政府は明治5年には神祇省を廃止して教部省を置き、神仏共同布教体制をしいた。しかし、「いったん断行された神仏分離による観念や価値観はその後もずっと日本人のなかに曳航されたのである」と松岡氏は言う。
ちなみに、神仏分離政策がとられたさなかの明治2年に、戊辰戦争(1868年)の明治政府軍の戦没者を祭る為に創立された東京招魂社が、今日の靖国神社の前身である。この経緯のために、わが国の戦没者は、仏様ではなく、神様として祭られることになった。
このような神仏分離政策が実施される過程で、宮中の儀式にも大きな変更が加えられたそうだ。

それまで宮中でおこなわれていた仏教行事が次々に撤廃されていった。 真言宗による後七日御修法(これは空海以来の行事)、天台宗による長日御修法、さらに御修大法、大元帥法などがすべて廃止されてしまった。もっと大掛かりな変化は伊勢神宮を歴史上はじめて天皇が参拝したことで、これによってアマテラス信仰と天皇を現人神とみなすシナリオが動き出した・・・

このあと、このシナリオが岩倉具視の王政復古プランの中にいかに組み込まれたか、その背景となる「宗教抑圧のモデル」は何だったのか、黒船という外圧の下で天皇神権論や排仏思想がどのように台頭したかについて、松岡さんの説明が続く。なかなかこみいった事情があったことがわかるが、全貌を理解するには、自分で他の文献を読む努力が必要と思われた。
神仏分離政策は、神道国教化政策といっても良いだろう。しかも「国教化」された神道は、稲作とともに成立したカムナビ(神奈備)信仰やイワクラ(磐坐)信仰などの「原始神道」や、古代律令国家の成立にともなって生み出された記紀神話と古代神祇制度の下での神道とは異質であるし、鎌倉武家政権の下で進み、江戸末期まで続いた神仏習合の下での神道とも異質である。この事情は、第1190夜『国家神道』で紹介されている。
いやはや、勉強になった。日本の歴史を通じて、神仏が習合していた時代のほうが長く、神仏が政治的に分離されてからまだ150年しか経っていないことを知って、気が楽になった。これから外国の人と宗教の話をするときには、神仏習合の教えが、日本人の宗教的アイデンティティだと説明するようにしよう。
中国でお寺の参道に生えているコンテリクラマゴケが、日本では神社の参道に生えているという事実は、おそらく伝統的な山岳信仰と中国から渡来した密教が習合した歴史を反映しているのだろう。とすれば、コンテリクラマゴケが日本に渡来したのは空海の時代なのだろうか。
杭州天目山には、イチョウも自生していて、中腹にある寺院に面した絶壁に生えていた。もしかすると、イチョウ密教とともに渡来した植物かもしれない。
イチョウ」が日本の古文書に出てくるのはいつの時代からだろう。そう思って検索してみたら、「各地に巨木イチョウが残っており、その中には弘法大師空海が手植えしたとの言い伝えがある木も多い」とWikipediaの解説に書かれていた。