評価と報奨のむつかしさ(1)

高校生と過ごした週末の合宿で、夕食の際に、大学教員の評価が話題にのぼった。大学では、努力して成果をあげた者に対する報奨制度がないが、これは組織のマネージメントとして不適切ではないか、という意見を聞いた。
私はこの意見に反対である。
大学教員の主たる任務は、教育と研究である。
まず、教育の評価について考えよう。たとえば環境創造舎のS舎長と私を比べて、教育実績の評価をすることが、はたして妥当だろうか。二人の教育方法や教育技術は、大きく異なる。どちらが良いかを決めることは難しい。
そもそも、万人に対してすぐれた教育などありえない。同じように教えても、学生によって受け取り方は違う。一方で、一人の教員が、すべての学生の個性に応じて、最善の教育を行うなど、無理な話である。多様な教員がいることが、教育現場には必須の条件である。
もっとも、私は教育に対する評価が不可能だとは考えていないし、評価をすべきでないとも考えていない。むしろ、評価は徹底しておこなうべきだと考えている。評価は、教育の質を不断に改善していくためには、必要不可欠である。
しかし、それを報奨にむすびつけると、教育は歪むだろう。
私は、金銭的な報奨のために教育をしたいとは思わない。教育に対するもっとも基本的な見返りは、学生の成長であり、学生たちからの感謝である。週末の合宿に参加した高校生たちの充実感あふれる笑顔や、ささやかな寄せ書きこそ、教師にとってはかけがえのない報酬である。それを金銭的な価値に置き換えることには、違和感がある。
教育とは利他行動であり、したがって、金銭的な評価にはもともとなじまないものだと思う。
教員が、金銭的な評価を求めて教育に精を出すようになれば、教え方は上達し、学生の試験の成績はあがるかもしれないが、もっと大切なものが失われてしまうだろう。
搭乗の時間なので、研究評価についてはまたいずれ。