詭弁論理学

野崎昭弘著 『詭弁論理学』 中公新書 ISBN:4121004485

学生時代に初版を買って読み、大きな影響を受けた本である。1976年が初版の出版年なので、購入したのは大学4年生の時だろう。その本は、いつしか私の本棚から消えてしまった。最近になって、もういちど読み直して見たいと思う機会が何度かあったのだが、今日偶然にも、福岡空港の4番搭乗口の前のJAL系の売店で、本書を見つけた。早速購入して、機内で読み返した。名著である。
現在の私が信条にしているいくつかの命題(二分法は徹底して回避すべきである、本質は人間が作り出した概念である、など)は、もとはと言えば本書に由来があるのだと、再確認した。
本書には、機知に富んだ警句が随所に書かれている。いくつか例をあげてみよう。

  • 「どこが悪いのか」これは強弁術のひとつのテクニックである。大体、論証ないし説得というのはむずかしいものなので、その手間を相手に押しつけてしまえば、半分は勝ったといってもさしつかえない。(23ページ)
  • 強弁術をふりまわすことができるかどうかは、頭の良しあしでも技術の問題でもなく、結局は人柄の問題である。(54ページ)
  • 詭弁の鍵は、豊富な実例と、大学者の学説の引用である。(65ページ)
  • うがった見方というものは、ウソとも断定できない場合でも、あまり信用しないほうがよい。(70ページ)
  • 本質的という言葉はなかなかの曲者である。「それはたしかに本質的な点をついている」「それでは本質的な解決にならない」「本質的な問題はそんなところにはない」こういう場面での「本質的な」という言葉は、「おれがいいたいのは」と同じ意味ではないかと私は疑っている。(72ページ)

読んだのが随分前なので、いくつかの点では、私の記憶は間違っていた。私の記憶の中では、二分法の誤りを喝破した例として、寅さんが博を煙にまく話が紹介されていることになっていた。しかし、実際には、寅さんが博を煙にまく話は、「論点のすりかえ」の例だった。
二分法の誤りを説明した例は、ギリシャ時代の母親が息子に語ったという逸話であった。
「お前が真実を語れば世間の人に悪く思われ、お前がウソを語れば神様に悪く思われる」と語る母親に対して、息子はこう返答する。
「お母さん、そんなことはありませんよ。私が無意味なことを語れば、それは真実ともウソともいえないわけです。ですから私は、世間からも神様からも、悪く思われるはずがありません」
二分法には、相手にどちらかの答えしかないと錯覚させる力がある。「どちらか」という問いに、「どちらも」と答えてしまえばそれまでなのだが、二分法のトリックにひっかかる人は多い。
かくいう私も、本書を読んだあとですら、セミナーで「君は分類をやりたいのか、種分化をやりたいのか、どっちなんだ」というような類の質問で問い詰められたとき、すぐには答えられなかった。よく考えてみて、どちらもやりたいのだという結論に達したのだが、その答えにたどりつくうえで、本書を読んだ記憶がきっと助けになっていたのだろう。
本書では、I部の導入のあと、II部で強弁術が、III部で詭弁術がとりあげられている。強弁術として、小児型強弁(上記の「どこが悪いのか」のようなタイプ)、二分法、相殺法が、詭弁術として、論点のすりかえ、主張の言いかえ、消去法、ドミノ理論がとりあげられている。
建設的な議論を交わすうえで、常識として知っておきたい知識ばかりである。
II部、III部の最後には、総括が書かれていて、これがまた面白い。
強弁術の総括において、「強弁術の要諦を格言ふうにまとめると、次のようになるであろう」と著者は言う。

(1) 相手のいうことを聞くな。
(2) 自分の主張に確信を持て。
(3) 逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。
(4) 自分のいいたいことを繰り返せ。
(5) おどし、泣き、またはしゃべりまくること。

郵政民営化法案に反対した議員に「守旧派」のレッテルをはり、見事に葬りさったどこかの国の首相の「術」を、つい思い出してしまった。(彼の場合、「泣き」だけはなかったが)。
詭弁術の総括では、「詭弁術に押されない、また気づかずに詭弁を操ったりしないための心構え」として、次の原則が紹介されている。

【原則1】無理やり説得しようとするな。
無理を通そうとしたり、思いつきを口にすると、かえって失言をして、議論がもつれることがある。
いかに「当り前」と思えることでも、好き嫌いや人生観が関係するようなことについては、相手の趣味や判断を尊重しなければならない。
【原則2】時間を惜しむな、打ち切るのを惜しむな。
議論は一歩一歩、お互いに一致できる点を確かめながら進めるとよい。そのように手堅く進めれば、論理のごまかしには、たいていだまされないですむ。
【原則3】結論の吟味を忘れるな。
健全な常識(道徳的、倫理的)に反する結論は、どんなに輝かしく見えようとも、勇気をもって捨てなければならない。
【原則4】「わからない」ことを恥じるな。
「わからない」ことを恥ずかしがる人は、論理の飛躍や二分法の押しつけに、簡単にだまされてしまう。

このあと、「論理のあそび」と題されたIV部が続く。この部分こそ、著者がもっとも書きたかったことなのかもしれない。
本書のはしがきには、こう書かれている。

なまじ「議論上手」になって人に嫌われるよりは、天分を生かして「話上手」になるか、あるいは「勝てなくてもよい」という前提で議論を楽しむ「ゆとり」を身につけたほうが、はるかに好ましいのではないかと思う。この「ゆとり」を望む人々(私自身を含む)のために、本書は生まれた。
本書が所期の目的にかなっているかどうかは、もとより私にはわからないが、ただ強弁をふるうための「ハウツーもの」として利用されないことだけは、著者として希望している。

本書が30年を経たいまも版を重ね、空港の売店で売られていることは喜ばしい限りである。詭弁・強弁を操るノーハウを求めて本書を購入するビジネスマンもいるかもしれないが、本書を読んで目を覚ます人がいれば、それは本書の効用である。
30年ぶりに本書を手にとって、著者が、もうひとつの名著『π(パイ)の話』(ISBN:4001152029 )の著者と同一人物であることを始めて認識した。考えるゆとりというものの大切さを、あらためて感じた一日だった。