捏造事件に思う:「孔雀の羽根」を育ててはいないか?

韓国のHwang博士による論文捏造事件をきっかけに、科学研究のあり方について、社会的な関心が高まっている。研究の現場にいるものとして、反省すべき点は何なのかを考えてみたい。
私は昨今の研究開発のあり方に関して、「孔雀の羽根」を育ててはいないか、という疑問を感じている。ここでいう「孔雀の羽根」とは、見せ掛けを良くするための価値しかない、無用の産物の象徴である。
科学とは執拗な実証研究によって進歩するものである。実証は、繰り返し行われる必要がある。そのような地道な実証研究によってはじめて、さまざまな可能性の中から、もっとも説明力のある仮説を選択することが可能になる。
しかし、研究のためには研究費が必要である。研究費を稼ぐためには、「評価」を得なければならない。高い「評価」を得るには、インパクトが必要である。「地道さ」はだけでは、あまりポイントは稼げない。何か、あっと驚く成果がほしい。要するに、見せ掛けのよさが求められる。
また、スピードが求められる。研究費を申請する際の研究期間は、通常は3年程度である。ということは、研究費がおりてから、次の申請をするまでの期間は、2年程度である。このインターバルで、次々に「新機軸」を打ち出して、研究の新しさをアピールし続けなければならない。
最近では、研究費が大型化しており、「アクティブな」研究者はさまざまな研究費を受けている。しかし、その結果、研究が「荒れている」と感じることも、しばしばある。この点は、自分に対する戒めとして、いつも肝に銘じているのだが、自分の研究が「荒れて」いないと断言する自信はない。
研究が「荒れている」とはどういう状態か?
第一に、論理的な緻密さ、詰めの厳格さを欠き、ひとつの問題を十分に解決しないままに、その先の問題に移ろうとしている、あるいは移っている状態。結論できていないことを結論できたと考えて先に進めば、砂上の楼閣を築くことになりかねない。Hwang教授の転落は、この道への誘惑に負けたことがきっかけだったのかもしれない。
第二に、流行のテーマ、研究費のとりやすいテーマに流され、研究者としてのアイデンティティが弱まっている状態。たとえば、新しい技術を使えば、研究の新しさをアピールしやすいが、もっと大切なことは、研究者として一貫したテーマを追求することだと思う。技術を使うことが自己目的化しては、本末転倒である。
研究者には、新しいものが好きな性格の人が多い。結果として、「新しさ」を評価する環境が生まれ、「新しい」課題に研究費がつく傾向が生まれる。そこに落とし穴があるのだと思う。
この状況を改善するにはどうすれば良いか。ひとつには、事後評価を重視することだろう。これからやろうとする「新しい」計画よりも、過去にどれだけの実績をあげたか、言い換えればどれだけ「公約」を果たしたかを重視して評価するのである。そうすれば、過去の業績の論理的な緻密さ、詰めの厳格さが評価にさらされることになる。
この方法は、一方で新しいチャレンジの足をひっぱりかねない。何事もバランスが必要だが、現状は、事後評価が弱すぎるように思う。
もうひとつは、もっとスピードを緩めることである。スピードが求められる研究開発課題もあるので、ここでもバランスが必要だが、たとえば「長期研究」という科研費の枠を作り、単年度は小額でよいので、10年間程度の研究を支援してはどうか。もちろん、中間評価は必要である。
競争にはコストがともなう。「孔雀の羽根」が、メスに好まれるためのオス間競争の結果生じた大きな「コスト」であることは、行動生態学の分野でよく知られた事実である。研究費をめぐる競争がある以上、競争のコスト、アピールするためのコストをゼロにはできないが、「孔雀の羽根」を育てないために、ルールを整備すべき時代に来ていると思う。

京急川崎に到着。これから、自然再生事業の現状を検討する研究会(合宿)に参加する。