ESS理論と血縁淘汰理論の現代的意義

高校2年生の麦秋さんから、次のような質問をいただいた。

「メイナードスミスのゲーム理論」やハミルトンの学説は今の生物学ではどのような評価をされているのでしょうか。今でも定説なのでしょうか。もし反論などがあるのであればよろしければ教えて頂けませんか。

メイナードスミスのゲーム理論とは、進化的に安定な戦略の理論のことだろう。メイナードスミスは、ある個体の適応度が、自分の性質だけでなく、他の個体の性質によっても変化するとき、どのような状態が進化的に安定かを、ゲーム理論を援用して解析した。この考え方は、数学的には、非協力平衡解(Nash解)と呼ばれる局所的な平衡条件を求めることに帰着する。これは、平たく言えば、個体どうしでまったく相談せずに(協力せずに)、各自が勝手に性質を変えたときの平衡状態を求めることである。同じ考え方は、経済学でも使われる。
この考え方は、たとえば、母親が子供を産む際の性比(出生性比)の研究で大きな成功をおさめた。もし、母親どうしで相談して、集団の増加率が最大になるように出生性比を決めることができるなら、息子と娘を1:1に産むことは、最適解ではありえない。メスが複数のオスと交尾することは動物では一般的である。とすれば、集団が増えていくうえでは、精子を提供してくれるだけのオスがいればよい。実際に、シカの個体数管理をする際に、オスを減らしてもほとんど効果はない。子供を産むメスを減らさないかぎり、集団の増殖は抑制できない。
では、なぜ息子と娘が1:1で産まれるのか? 母親が互いに協力せずに出生性比を決め、繁殖競争をしていると考えてはじめて、この状態が説明できる。
このような考え方は、動物の行動の進化が、「種の利益」(=集団の増加率など)ではなく、あくまでも「個体の利益」(=ある性質を持つ個体が生涯に残す子供の数の期待値)によって規定されるという現代進化学の常識を確立するうえで、非常に大きな貢献をした。
「進化的に安定な戦略の理論」(ESS理論:ESSとはEvolutionarily Stable Strategyの略)と呼ばれるこの考え方は、現代における進化生態学の支柱となる理論であり、その意味で、定説である。
ただし、この理論がつねに正しいわけではない。第一に、生物のある性質について、ESSが進化の帰結となるかどうかは、その性質を規定する遺伝的なメカニズムに依存する。核ゲノムではなく、たとえばミトコンドリアゲノム上にある遺伝子が関与している場合には、ESS理論は必ずしも正しくない。核ゲノム上の遺伝子で規定されている場合でも、少数の遺伝子がその性質の発現に強い効果を持っている場合には、ESS理論は必ずしも正しくない。したがって、現代の進化生態学では、遺伝的なメカニズムを明らかにしたうえで、より強い実証を進めようという研究が進んでいる。
第二に、非協力平衡解(Nash解)が、集団の平均値のずれに対して不安定な場合がある。このような場合には、convergence stabilityと呼ばれる状態が、進化の帰結であると予測される。このため、先般、京都賞を受賞したサイモン・レヴィン博士は、「進化的安定戦略(ESS)という概念を不完全な概念と明言した」そうだ。このように、ESS理論のうえに、新しい考え方がつけ加えられつつある。しかし、ESS理論が間違いだったということではない。その適用範囲がはっきりしてきたと考えれば良い。
次に、「ハミルトンの学説」だが、これは、血縁淘汰理論のことだろう。動物の行動が、「種の利益」ではなく、「個体の利益」を最大にするように進化したとすれば、他の個体を助ける行動(利他行動)をどう説明すれば良いのか。とりわけ、メスであるにもかかわらず自分では子供を残さないミツバチなどのワーカーをどう説明すれば良いのか。
これらの疑問に対して、ハミルトンは、利他行動を行なう相手が自分と血縁関係にあり、そのため同じ遺伝子を共有している確率があれば、自分が子供を残さなくても、相手の子供の数を増やすことによって、結果的に自分の遺伝子が増える機会を大きくすることができると考えた。
この血縁淘汰理論もまた、現代の進化生態学の「定説」である。しかし、その適用範囲は、以前に比べればより限定的なものではないかと考える研究者が増えていると思う。この点に関する評価はまだ流動的であり、ここしばらくの実証研究によって、より冷静な評価が定まっていくだろう。
血縁淘汰理論の問題点はいくつかある。第一に、血縁個体どうしの競争を無視している。血縁個体どうしの競争の効果が大きければ、当然のことながら、相手を助ける効果は小さくなる。第二に、血縁淘汰の効果以外に、相手を助けることが自分にとって直接的に有利になる条件が見つかってきた。このような「直接的な利益」が、次第に重視されつつある。
この問題については、次の総説が参考になる。
Griffin and West (2002) Kin selection: fact and fiction. Trends in Ecology and Evolution 17: 15-21.
この総説のファイルは、Westの研究グループのホームページからダウンロードできる。このホームページには、他にも、血縁淘汰に関する最新の研究成果が紹介されていて、とても参考になる。血縁淘汰理論を、バクテリアを使って実証した研究についても紹介されている。
なお、ドーキンスの「利己的遺伝子」というコピーは、ESS理論や血縁淘汰理論の考え方をわかりやすく表現したものであり、それ以上のものではない。ドーキンス独自の理論というものは存在しない。この点は、しばしば誤解されているので、あらためて注意を促しておきたい。
麦秋さん、この説明でなっとくしていただけたでしょうか。