質問をしない大学生・新聞を読まない大学生

今日は、六本松キャンパスに出かけて、マスプロ講義を2つこなした。コア教養科目「地球と生命」と総合科目「環境科学概論」。いずれも、200名規模の受講生が相手である。このようなマスプロ講義では、教官が一方的に話す場合が多い。しかし、それでは学生はなかなか自分の頭で考えないと思う。そこで、私はマスプロ講義でも、学生に問題を投げかけ、視線があった学生を指名して、答えてもらうやり方を取り入れている。
「地球と生命」の最初30分間では、生命と非生命の違いはなんだろうかという問題を投げかけて、いろいろな答えを出してもらい、それらに解説を加えた。
「環境科学概論」では、干潟で窒素が除去される仕組みは主に3つあると言ったあとで、これら3つについて答えてもらった。「化学反応」とか、「生物が吸収する」といった程度の回答は出たので、そのあとでさらに解説を加えた。
このようなやり方をすれば、自分から手をあげて、意見を言う学生が、以前はいた。今年は、2つの講義を通じて、ひとりもいなかった。これでは、講義をする方としては、なかなか気持ちがのらない。
大学入学まで、ずっと受身の教育を受けてきたのだろう。疑問に感じたことを質問する訓練を受けていないのだろう。そうは思うが、いささか、情けなくはないか。このブログを読んでいる学生もいるだろうから、発奮してほしい。
今日の「地球と生命」では、さらに深刻な現実を目の当たりにすることになった。DNA・RNAの説明の導入にあたり、「水溶性核酸水」の話題にふれた。「核酸って何かは、知ってるね。知っている人、手をあげて」というと、数人しか手があがらない。生物を受験で選択している学生が過半数をしめているクラスだが、高校では「核酸」という用語は習わないのだろう。この結果は、想定の範囲内。しかし、次の質問への反応には、驚いた。
「新聞を読んでいれば、核酸についての記事がときどき載るんだけど、みんな新聞はあまり読まないのだろうね。新聞を読んでいる人、どのくらいいますか?」と聞いてみた。受講生はおよそ180名。10人くらいはいるだろう、と予想していた。結果は、ゼロ!
遠慮して、手をあげなかったわけではない。他のいろいろな質問に対しては、少なくとも数名が手をあげた。
下宿生が新聞を読まないことは知っている。しかし、九大には自宅生も多い。自宅生なら、家では新聞が読めるはずだ。読める環境にあっても、読んでいないのである。
今日の毎日新聞に、大学生はボキャ貧、という元村さんの署名記事があった。しかし、事態はボキャ貧かどうかというレベルの問題ではないようだ。
新聞は、図書館に行けば読める。「考える癖」(理系白書ブログ6月8日のタイトル)をつけるためにも、せめて新聞くらいは読んでほしいのだが。
大学の4年間で、大学生に何をどう教えるかについて、これまでとは違った次元で考えなければならない時代が来たように思う。