専門馬鹿がなぜ悪い?

理系白書」の元村さんの活躍には敬意を払っている。しかし、5月26日のブログには、大いに不満がある。
元村さん、曰く。

  • 文系の理系音痴を言うのと同じく、理系の「専門馬鹿」(他の専門分野に疎い、無関心)は問題ではないか
  • 理系人の社会リテラシーは十分か

このような問題設定に、はたして客観的根拠があるだろうか。
他の専門分野に疎い、あるいは無関心な人は、理系でも文系でもいる。そういう人が理系出身者に多いという統計的に有意な傾向があるのだろうか。私の経験では、理系にも文系にも、他分野に無関心な人と、好奇心旺盛な人がいる。理系と文系で、その比率が違うかどうかは、定かではない。研究者の中では、むしろ理系のほうが、好奇心旺盛な人が多いように思うが、これは主観的印象であり、客観的根拠はない。
「理系人の社会リテラシーは十分か」という問いかけには、「理系人は社会に無関心、あるいは世間知らず」という評価が背景にある。この評価に根拠があるのだろうか。
私は、九大新キャンパスの森や生物を守るために、市民や地域住民と協働で、さまざまな取り組みをしている。この取り組みに参加しているのは、みんな理系。文系の学生や教官に、もっと参加してほしいのだが、5年間呼びかけ続けても、まだ反応はかえってこない。
これも、きわめて少数の事例にもとづく個人的感想なので、客観的評価ではない。しかし、「理系人の社会リテラシーは十分か」という問いかけは、もっと根拠薄弱だと思う。
専門馬鹿」に関して言えば、私は大いに結構だと思う。何かひとつのテーマについて、「専門馬鹿」になれない人は、決してプロにはなれない。ひとつのテーマについて究めた経験がある人なら、究めるということが、どれだけ大変な努力を必要とするかがわかっている。だから、軽々しく他の専門分野に手を出さない。道を究めるとは、そういうことだ。一見無関心に見えるかもしれないが、それだけ自分の専門に責任感を感じているのである。
理系だろうが文系だろうが、科学者だろうが芸術家だろうが、あるいはまた、棋士だろうがスポーツ選手だろうが、道を究めた人なら、同じことを言うだろう。
そして、「一芸は多芸に通ず」ということにも、同意するだろう。この格言は、「一芸を極めれば、何でもできる」などという、馬鹿げた絵空事を意味しているのではない。究めるということが、どれだけの努力を必要とするかがわかっているから、自分の専門外の仕事に取り組む必要に迫られたときに、それだけ真剣な努力をするという意味だ。
専門馬鹿」は、企業では敬遠されるそうだ。修士課程修了者に比べ、博士課程修了者・学位取得者に対する求人は少ない。総合科学技術会議の議事録などでも、このような傾向が指摘されている。その理由は、専門に特化しすぎていて、使いにくいということらしい。
私は、この問題は、「専門馬鹿」の責任ではなく、「専門馬鹿」を使いこなせない側の責任だと思う。
私が何かのビジネスを始めるとしたら、「専門馬鹿」を雇う。金儲けにはまったく興味がないので、あくまで仮想の話だが、成功のためのシナリオは書ける。
まず、その分野のビジネスで成功している事例を徹底してサーベイする。同じことの後追いをしても、まず勝てない。そこで、成功事例を参照しつつ、自分独自のアイデアを徹底して考える。何かひとつでよい、これだけは自分のオリジナルだというアイデアを考える。そして、そのアイデアを実行に移すために必要なスキルを持った、「専門馬鹿」を雇う。「専門馬鹿」たちと、自分のアイデアの実現可能性について、徹底して話し合う。上司・部下の関係など、どうでもよい。自分のアイデアの実現可能性を高めてくれる同志が必要なのである。
あとは、一所懸命に仕事をすることだ。スタート段階の加速力は、スタッフの献身度にかかっている。努力が苦にならないスタッフが数名いれば、事業の成功は8割方約束されていると思う。1割は運。残る1割が何かは、みなさんの想像におまかせしよう。
日本社会の大きな問題は、「専門馬鹿」を使いこなせない上司が多すぎることではないだろうか。
文系であれ、理系であれ、ひとつのことに専心し、献身して、道を究められる人材は、大切である。そのような「専門馬鹿」を、もっと尊敬してほしい。
専門馬鹿」は、変人とは限らない。変人は、「専門馬鹿」にも、それ以外の人たちにも、同じようにいると思う。確かに、「専門馬鹿」であり、かつ変人という人はいて、そういう人は目立つ。マスコミが好んでとりあげる対象になる。
しかし、実際には、専門を究めた研究者には、常識も良識も兼ね備えた人が、決して少なくない。元村さんは、取材経験を通じて、それを知っているはずだ。
「理系」=「専門馬鹿」=「社会性の欠如」といった、ステレオタイプ的評価は、もう終わりにしたい。根拠薄弱なステレオタイプに依拠した議論ほど、むなしいものはない。
理系であれ、文系であれ、冷静な議論を追及する人なら、同じように考えると思う。