遺伝子汚染

今日は宿題の一つ、「遺伝子汚染」について考えてみよう。雄花の少ないスギを各地に植えた場合に、その遺伝子が野外に拡散して、野生のスギに何らかの影響を与えるのではないか? 除草剤耐性遺伝子を組み込んだダイズを栽培した場合に、除草剤耐性遺伝子がツルマメ(ダイズに近縁な野生種)の集団にひろがり、何らかの影響を与えるのではないか? 
このように、人工的に植え込まれた植物の遺伝子が、野外集団に広がる現象は、しばしば「遺伝子汚染」と呼ばれる。私は、この用語は、学術用語としては好ましくないと考えている。「汚染」という言葉には、遺伝子が野外集団に広がることは好ましくないという意味が込められている。一方、科学が予測し、判定できるのは、遺伝子が野外集団に流動・拡散するかどうか、かりに流動・拡散した場合に、何らかの生態的影響が生じるかどうか、という2点である。流動・拡散が起き、何らかの生態的影響が生じた場合に、それを好ましくないと判断するかどうかは、価値的命題である。つまり、価値観にもとづいて、良いか悪いかを判断する問題であり、科学的に正しいか間違っているかを決められる問題ではない。
学術用語は、可能な限り、価値観とは独立であるべきだと思う。この立場から、私は「遺伝子汚染」という言葉を、できるだけ使わないようにしている。学術用語としては、「遺伝子流出」という、中立的な表現のほうが良い。
流動・拡散がもたらす生態的影響が、私の価値観から見て、好ましくない場合もある。ツツジの園芸品種の遺伝子がオオシマツツジ集団にひろがったり、栽培のために持ち込まれたクワの遺伝子がオガサワラグワの集団にひろがったりしている。その結果、固有植物の野生集団の遺伝的組成が損なわれるリスクが顕在化している。これらの場合には、私も「遺伝的汚染」と呼びたい。しかし、このような野生集団への影響がつねに生じるわけではない。結論を先取りする表現は、科学にはふさわしくない。
「遺伝子が野外集団に流動・拡散するかどうか」という問題と、「流動・拡散した場合に、何らかの生態的影響が生じるかどうか」という問題は、しばしば混同されている。しかし、両者はしっかり区別するほうが良い。前者を「遺伝子の拡散リスク」、後者を「遺伝子拡散による生態的リスク」と呼ぼう。
外来種問題と比べると判りやすいだろう。外来種問題では、「外来種が定着するリスク」と、「外来種定着がもたらす生態的リスク」を区別する必要がある。すべての外来種が、生態系に悪影響を及ぼしているわけではない。いわゆる「侵略的外来種」が問題なのである。ただし、どれが「侵略的外来種」かを、進入・定着以前に判断することは容易ではない。したがって、予防原則にのっとり、可能な限り新たな外来種の定着を防ぐのが、新たな「侵略的外来種」を発生させないための最善の手段だと思う。
一方、「遺伝子拡散による生態的影響」は、「外来種定着がもたらす生態的影響」に比べれば、顕在化している例が少ない。その理由は、第一に、交配相手となる野生の植物がない限り、影響は生じ得ない点にある。現実には、交配相手があるケースは少ない。第二に、次のような場合には、栽培集団の遺伝子は野生集団にひろがりにくい。(1)交配相手の野生集団は栽培集団からある程度隔離されている。(2) 野生集団のサイズは栽培集団のサイズより大きい。(3) 栽培集団の遺伝子は野生集団が生育する環境では不利である。
栽培集団から野生集団への遺伝子流動がほぼ確実に生じている例に、栽培ダイコンとハマダイコンの関係があげられる。ハマダイコン集団には、栽培ダイコン由来と考えられる性質(たとえば太い根)が、しばしば見つかる。しかし、このような性質がハマダイコン集団全体にひろがっている例は、見つかっていない。したがって、ダイコンの栽培が、ハマダイコンの野生集団に生態的影響を与えているとは言えない。もちろん、将来見つかる可能性はある。
さて、スギ品種や遺伝子組み換えダイズを植樹・栽培する場合、「遺伝子流出」自体を防ぐべきだと考えるか、それとも「生態的影響」を避けるべきだと考えるかによって、判断は変わる。とりわけ遺伝子組み換えダイズの場合には、「遺伝子流出」自体を防ぐべきだという主張が、社会的にある程度の支持を得ていると思う。このような場合には、「遺伝子の拡散リスク」をきちんと評価すべきである。この評価は、「生態的影響」が考えられるから必要なのではない。「遺伝子の拡散」自体を好ましくないと考える人がいるから、必要なのである。すなわち、人間の多様な価値観を尊重するために、必要なのである。この考えは、科学者の間では、いまは少数派である。科学者には、「生態的影響」がなければ、問題ないと考える人が多い。「風評被害」はけしからんという主張もよく耳にする。しかし、科学の成果をどのように利用するかは、科学者だけでは決められない。「遺伝子組み換えは気持ちが悪い」という価値観も尊重しなければならない。「遺伝子組み換え作物」を栽培できるかどうかは、粘り強い合意形成の努力が実を結ぶかどうかで決まる。
なお、除草剤抵抗性遺伝子を組み込んだ作物を広域で栽培した場合、除草剤による除草の効果が高まり、これまで雑草に依存して生活していた多くの動物に、大きな影響が及ぶと予測される。この問題は、しばしば見過ごされているが、遺伝子組み換え作物の生態リスクとして、もっと真剣に検討される必要がある。
さて、雄花の少ないスギ品種については、「遺伝子流出」はどの程度問題だろうか。この場合には、「遺伝子流出」自体を防ぐべきだという主張は、社会的支持を得ないのではないかと思う。また、幸い、「雄花が少ない」、あるいは「雄花をつけない」という性質は、野生集団では明らかに不利なので、「遺伝子流出」が起きても、淘汰によって取り除かれると予測される。私は、これまでスギ植林だった場所に、雄花の少ないスギ品種を植樹することは、問題ないと思う。林業を守るために、良好なスギ植林のスギを、雄花の少ないスギ品種に置き換えていくことには、賛成である。
もちろん、花粉症対策としては、即効性がない。花粉症対策事業としての費用対効果には大いに疑問がある。もはや林業が成り立つ見込みのない場所では、スギ林を伐採して、広葉樹林に戻してほしいものだ。(羽田空港サクララウンジにて。もうすぐ搭乗の時間なので、アップロードは福岡に着いてからになる)