京都議定書

昨日、京都議定書が発効した。日本が実現に向けて努力した国際的枠組みが、何とかスタートを切ったことを喜びたい。
この問題について、中西準子さんが、「不確実と不条理を内包した温暖化対策論争」と題して、コメントをされている。中西さんは、素直には喜べないというお気持ちのようだ。
まず、「世界で最も省エネに努めてきた日本が、これほどまでに厳しい目標を課せられるのは不条理という思いが、広く日本社会に澱のように溜まってきているように思う」「EUは自経済圏に有利なルールを持ち込んでいること、中国、韓国、米国には当面削減義務がないことなど、筆者も納得できない気持ちが強い」と書かれている。
次に、「2012年までに90年基準で6%減」というわが国の目標を達成することは容易ではなく、「低税率の環境税は実は規制頼みの政策であり、民生・運輸部門への高税率の炭素税と産業部門への規制との組合せか、排出量の上流規制でなければ効果がない」という主張が正論だと支持したうえで、この意見が「主流にならず、効果のはっきりしない環境税議論に終始するのは、先に述べた不条理感に加えて、科学的な根拠への疑いがあるからではなかろうか。」と、科学的根拠への不信感を表明されている。
最後に、科学的根拠のレベルについて、「予測が完全に正しいとは言えないが、これまでの知恵を集結したモデル予測に従えば、二酸化炭素が温度上昇に一定の役割を果たしているという結論が得られる。その影響で人類が滅びるというようなものではないが、科学の示す方向に進むことが、科学によって産み落とされた地球温暖化をめぐる政治経済の課題であろう」という見解を引用し、「不確かさが世界の経済に影響を与える中で、不確かさの幅の縮減という課題が自然科学者の肩にずっしりとかかっている。また、経済学者や政策立案者は、不確実性の幅を考慮した政策立案の方法論を提案すべき時が来ていると思う。」と結ばれている。
正直な感想として、歯切れが悪いと思う。科学的根拠の不確かさと、目標達成のむけての政策の混迷という、二重の不確実性に対して、科学者として納得がいかないというお気持ちと察した。
このような状況にあって、「不確かさの幅の縮減という課題」を掲げるのは、自然科学者としては、当然の主張ではある。しかし、私はむしろこの点に関して、釈然としない気持ちがある。
現在、地球環境変動の観測に関して、巨額の研究費が投入されている。しかし、このような研究投資によって、「不確かさの幅」がどれだけ縮減できるかは、きわめて「不確か」である。巨費を投じた「地球環境シミュレータ」の開発によって、シミュレーションの精度は確実にあがっているが、そのシミュレーションを支える観測データは、きわめて不十分である。「観測」は人手がかかり、しばしばローテクなので、研究費をつぎこんでも、見栄えがしない。そのため、研究費はスパコン開発のような「ハコモノ」に投入されがちだ。しかし、正確な予測のためには、正確なデータが欠かせない。現状の観測体制では、いつまでたっても、正確な予測はできないだろう。いや、そもそも、正確な予測など、不可能なのかもしれない。
科学者としては、「不確かさの幅の縮減という課題」が大事だとは思うが、一市民としては、私は「2012年までに90年基準で6%減」という目標を支持し、その実現のための筋道が明確に示されることを強く望む。
科学的根拠が「不確かさ」であっても、それを前提にしたうえでの「合意」があれば、対策は実行できる。国民的合意は、すでに相当高いレベルに達している。他国がどうあれ、「京都」の名前を冠した議定書の目標達成に、政府も企業もがんばってほしい。
もちろん、フリーライダーである消費者の意識改革は欠かせない。