「ゆとり教育」見直し

毎日新聞朝刊1面を手に取ると、「ゆとり教育見直し」と大きく書かれた見出しが目にとびこんだ。記事には、「総合学習の時間削減を視野に」とある。「またか」と思う。「またか」と思う理由は2つある。
1つは、新聞の書き方。同じ毎日新聞朝刊3面には、新中教審会長を紹介するコラムがあり、「総合学習の流れは変えるべきでない」という趣旨の会長発言が記されている。1面には、「一面」を強調した見出しを使い、3面などでバランスをとる、といういつもの書き方だ。だから、「またか」と思う。現実には、「1面大見出し」が世論を誘導する効果は大きい。もうすこし何とかならないものか。もっとも、読者がみんな、新聞ってそんなもんだよ、と冷静に読んでくれれば良いのだが。
もう一つは、文部科学大臣が「学力重視」の方針を打ち出し、中教審が開かれる点。「どのような教育が望ましいか」という問題に、唯一の最適解はない。たくさんの解の中から、どれを選ぶかという選択になる。そのような選択を、国家レベルで繰り返し、ゆとりだ、いや学力だ、というように教育方針がぶれるのは、好ましくない。国家は、「ゆとりも学力も大切だ」という大枠を提示し、そのバランスについては、多様な選択肢を認めても良い時代ではないか。
「指導要領」に象徴される、国の教育管理が、時代の要請に合致しなくなっている面がある。もちろん、国の教育管理は必要だ。最低限教えるべき内容は、きちんと決めておかねばならない。しかし、いまの学校には、指導要領をこえた内容を教える「ゆとり」があまりない。自治体や学校に、多様な試みを許し、多様な解を探す必要がある。(箱崎九大前到着)
安藤寿康さんの『心はどのように遺伝するか』(ブルーバックス)に、文法中心の英語教育と、会話中心の英語教育のどちらが効果的かについての研究成果が紹介されていた。たしか、小学校高学年の双子を使った研究だったと記憶している。双子を2つのクラスに分けて、片方は文法中心、他方は会話中心の英語教育を行う。どちらが効果的かは、意見の分かれるところである。長年の論争のテーマといってもよい。さて、軍配はどちらにあがったか。
答えは明快。文法中心に教育すれば、文法の理解を問う問題で得点が高くなり、会話中心の教育をすれば、会話力が上達する。
教育とは、そういうものだ。抽象的な「学力」論争はもうやめにしたい。
ところで、昨日の新聞に、小論文をコンピュータで採点するシステムが開発されているという記事があった。小論文を出題するうえでの問題は、採点だ。基準をそろえることも大変だが、何よりも大量の答案を読むのが大変。それがコンピュータで採点できるとなれば、出題はしやすい。そうなれば、受験生としても対策がとりやすい。コンピュータの採点基準にあった作文をする「学力」は、飛躍的に向上するだろう。
このような教育には、光も影もある。教育は、学生の能力を均質化することでもある。基礎学力の養成と、多様な能力の育成のバランスが大切なのだと思う。

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