グリホサートの発がんリスクは低い

大隅典子さんが「消費者が動かした ダイソー“発がん性農薬”販売中止の英断」という記事をツイッターで拡散されていますが、私は除草剤としてグリホサートを通常の使用量で使うことによって発がんリスクが高まる、という科学的証拠は脆弱だと判断しています。以下のような論文に依拠して、冷静な議論をする必要があると思います。

8月4日Facebookより

とある方の記事について、以下のようなコメントを書きました。私のタイムラインにも転載しておきます。もし私が参照している論文が適切ではないとか、グリホサートの発がん性について信頼できる証拠がある、という情報があれば、ぜひご教示ください。私は、自分が間違っている可能性については、常に謙虚にチェックするつもりです。「農薬をひとくくりにして危険だというのは非科学的だと思います。ネオニコチノイドは多くの動物に対して毒性がありますが、除草剤グリホサートは植物のシキミ酸回路を特異的に阻害する薬剤で、動物には受容体がなく、DNAに作用する性質もないので、動物への顕著な毒性は原理的に考えにくいです。International Agency for Research on Cancer (IARC) が2015年にグリホサートを変異原性のある物質の候補リストに掲載したために議論が起きていますが、変異原性に関する実験的根拠は脆弱であり、以下の論文では、IARCのリスト掲載に懐疑的です。

https://www.ingentaconnect.com/content/wk/cej/2018/00000027/00000001/art00012?fbclid=IwAR0oGyP47Vz0ebt9ZMot3CMVluw6_F5owLohZ-s6bzO6BC9ylXMgZiYmA6s

要旨:最近の国際癌研究機関(IARC)による除草剤グリホサートの可能性のあるヒト発癌物質としての分類により、かなりの議論が生じている。IARCの分類は、いくつかの国内および国際的な規制機関によるグリホサートの発がん性の評価とは異なる。 (中略)ヒト発がん性物質としてのIARCによるグリホサートの分類は、ワーキンググループによって評価された実験的証拠の不正確で不完全な要約の結果だった。合理的で効果的な癌予防活動は、疑わしい薬剤の発がん性の可能性に関する科学的に健全で偏りのない評価にかかっている。 IARCワーキンググループの審議プロセスに関して、(IARCによる)グリホサートの誤った分類が持つ意味について(この論文では)検討する。」

友人からのコメント

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1383574218300887

UCバークレーの研究チームのメタアナリシス研究です。疫学的研究だと因果関係までは解明できませんが、非ホジキンリンパ腫の発症リスクはグリホサート使用群と非使用群とでは41%の違いがあるとのデータを示しています。

作用機序までは分かりませんが、非ホジキンリンパ腫は炎症などによっても引き起こされるので、直接DNAの損傷がなくても免疫系に影響があれば、発症リスクは高まるものと思われます。

私の返事

ざっと読みました。最新の文献がレビューされており、グリホサート問題について学ぶうえでとても有益ですね。ただし、2つ大きな問題点があります。ひとつはN=6のメタ解析であり、著者たちも指摘しているように、有意差が出た研究が公表されやすいというバイアスがかかっている可能性があります。下記の論文では、グリホサートに関するIARC の評価が「おそらく発がん性がある」、USEPAの評価が「人間への発がん性はありそうにない」と、異なるものになった理由について説明しています。USEPAの評価は、publication biasを避けるために、未発表のデータもとりいれて分析しています。EPAの制御アッセイ(論文としては公表されていない)では、発がん性が確認されたのは43件中ゼロ。論文として公表されている結果では、75%で発がん性が指摘されている。USEPAはこれらのエビデンスを総合的に評価しています。一方、IARC の評価は論文に依拠しています。

https://link.springer.com/article/10.1186/s12302-018-0184-7?fbclid=IwAR2btroPHGShWPHLlc1DRQolGtclN_fxTedgCC4abfZ9lEmwoS9TCSzAdpY

もうひとつの問題は、the highest exposureグループを使ったメタ解析であることです。この結果から、職業的にいつもグリホサートを使用している人については、非ホジキンリンパ腫の発症リスクが高まる可能性があると言えますが、日常的な経口摂取において非ホジキンリンパ腫の発症リスクが高まるとは言えないと思います。リスクはゼロにはできません。したがって、より効果の強い他のリスク因子や、日常的に摂取されているリスク因子と比べて判断することが必要です。環境問題における意思決定では不確定性が高いので、予防原則が広く採用されていますが、食品の安全性評価では、リスクをより正確に測定できるので、不確定性の大きさ自体を考慮したうえで、リスクの大小をもとに判断するのが王道です。リスクの大小を量的に評価することは、不安対策としても重要です。人間は「危険」か「安全」かというような二値的な判断をしやすく、「危険」と言われるとその評価自体が不安を誘発し、ストレスになります。したがって、感情的なおそれ(農薬はこわい、というような直観的判断)ではなく、理性的なおそれ(リスクの大小にもとづく理性的判断)をすることで、無用なストレスを生まないようにすることが重要です。科学の研究においてはあらゆる可能性を考えて検証していくことが大事なので、一見非常識な仮説についてもしっかり検証しなければいけません。しかし、科学の成果や、とくに仮説について社会に発信するときには、常識的な判断をして、感情的なおそれを拡大しないように配慮する必要があります。教えていただいたメタ解析の結果は、日常的にグリホサート散布をしている農民などに、発がん性のリスクがあることを示唆しており、このリスクについてはさらに正確に把握する必要があるし、当面の予防措置として、暴露量に制限をかけることも検討課題でしょう。しかし、日常的な経口摂取においてはっきりしたリスクがあるという説明は、ミスリードだと思います。いま得られているデータでは、食品中の残留濃度を制限するという判断には至らない(これがUS EPAの判断)。たとえばワラビには発がん性物質が含まれていますが、あく抜きをして食べれば濃度は発がんリスクを気にするレベルではなくなります。

 

クアラルンプールを経てブルネイから屋久島へ

6月25-27日にはクアラルンプールでアジア太平洋地域生物多様性観測ネットワーク(APBON)第11回ワークショップを開き、共同議長のひとりとして、新作業計画策定などの議論に対応しました。来年には第15回生物多様性条約締約国会議が昆明で開催され、ポスト愛知目標を含む次の10年間の新戦略計画が策定されます。この策定に向けて、提案をしていく時期にさしかかっています。私は、各国が国別報告書をまとめるだけでなく、生物多様性観測体制に予算を割き、観測・評価をきちんと行うことが大事だと考えています。この提案をまとめたいのですが、その一方で、新作業計画の文書を完成させる必要があります。いまも、新作業計画の完成に向けて、何人かの方々が作業を進めてくださっています。私も早くこの作業に復帰したいのですが、今日は屋久島でこれからヤクシカワーキンググループの会議に出ます。

7月1-5日には、ブルネイで開催されたFlora Malesiana Symposium(こちらも第11回ですが、3年に一回の会議なので、もっと歴史は古い)に出ました。4日に40分間の招待講演をさせていただきました。Lessons from plant diversity assessments in SE Asia:
Sterile specimens and DNA sequences enabled us to discover more than 1,000 undescribed species(東南アジア植物多様性アセスメントの教訓:花も実もない標本とDNA配列を使って1000種以上の未記載種を発見できた)というタイトルで、COP10が開かれた2010年以来の研究の蓄積を紹介しました。12か国56地点で167か所に100m×5mのプロットを設置し、全維管束植物を識別・採集し、4万4千点の標本・写真・DNAサンプルを蓄積しました。この蓄積は東南アジアの植物研究で前例のない成果であり、講演にはインパクトがあったと思います。「花も実もない標本とDNA配列を使って新種を記載した論文が審査にまわってきても、do not reject it」と言ったら、かなり笑ってもらえました。いろいろと面白いパターンも見えてきており、種分化や多種共存というテーマにもアプローチできるのですが、その前に1000種以上の未記載種を発表しなければなりません。一日1種記載しても1000日かかる。さらに、56地点のプロットデータをクリーニングして、プロットごとにまずデータペーパーを発表したいのですが、これも月にひとつのペースだと50か月(4年あまり)かかる。人生がもうひとつほしいですよ。

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Flora Malesiana Symposiumでの招待講演。藤柄の法被を着て話しました。

Flora Malesiana Symposiumの参加者は、東南アジアの植物の研究論文以外に、私が"Decision Science for Future Earth”という題で、人間の意思決定と社会問題解決に関する総説を書いているとは、誰も思わないことでしょう。こちらのプロジェクトの最終報告書をJSTに7月1日に出しました。そのため、クアラルンプールからブルネイに移動する間は、この仕事にかかりきり。

APBON、東南アジアの植物多様性アセスメント、"Decision Science for Future Earth”、ヤクシカ問題。これ以外にも、いくつか大きな仕事をしています。保全生態学入門改訂とか、九大伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンの調査とか、一般社団法人の設立とか(これについてはいずれ書きます)。このため、迅速に返事ができないことが多くてご迷惑をおかけしています。ご容赦ください。

論文を書くのはしんどいけど楽しい

論文を書き続けるのは、道なき道をかきわけて山に登るのに似ていて、しんどいですね。ここしばらくは、おいしげった藪をこいで、力づくで前に進むような論文執筆作業を続けています。見通しが効かず、どちらに進んで良いかわからず、少し進んでは引き返して、別の道を進むという試行錯誤の繰り返し。体力(脳力)を使う、しんどい作業です。早朝覚醒型の不眠症が続き、血圧も高止まり。

なんでこんなにまでして書くかと言えば、完成すると楽しいからです。山に登頂したときの喜びに似ています。いや、作品として残るから、それ以上の喜びですね、私にとっては。

書いているのは、”Decision Science for Future Earth"というコンセプト論文。社会的問題解決の現場での意思決定に関する総説です。意欲作ですよ。7年前に始めた決断科学大学院プログラムの成果です。いろいろな分野の方から学んだ知識を総動員し、『決断科学のすすめ』で書いたスケッチをもとにロジックを精緻化し、Future Earthという大きな国際プロジェクト全体への提案として、書いています。

執筆チームの決断科学センターの若い教員の方々に、一緒に議論していただいたり、下書きを書いていただいたりして、助けていただいています。しかし、全体をまとめる作業は、私がやるしかない。私だって、若いころにはとてもこんな包括的な論文は書けませんでした。7年前でも無理でした。博士課程リーディングプログラム・オールラウンド型のコーディネータという無茶ぶりを引き受けなければ、こんな大変な仕事はぜったいやらなかった。

思い返せば、植物レッドデータブックもそうでした。かなり無理な大仕事を引き受けて、必死で取り組んだ結果、保全生態学という新しい分野の立ち上げに貢献することになりました。そういう人生を送るようなキャラに生まれついてしまったのでしょう。

サイエンス誌に、

Bodin, Ö (2017). Collaborative environmental governance: Achieving collective

action in social-ecological systems. Science 357, eaan1114.

https://science.sciencemag.org/content/357/6352/eaan1114.abstract

という総説が発表されています。最終的には、このようなスタイルの論文に仕上げて、ハイインパクト誌に投稿してみたいと思います。

・・・と息抜きにブログを書きました。

里山・里海の話題は、しばらくお預けです。『保全生態学入門』改訂作業にとりかかった後で、再度とりあげます。いちどに一つの原稿しか書けないので、当面は、”Decision Science for Future Earth"に集中します。といっても、ほんとは今日明日中に完成させないと、いろいろとやばいんですが・・。

順応管理と社会学習に関する文献

”Decision Science for Future Earth"という英文総説(コンセプト論文)を急いで仕上げる必要があり、かなり頑張っています。引用する必要があって海外発注していた以下の本が届きました。

Gunderson et al. (1995) Barriers and Bridges to the Renewal of Ecosystems and Institutions

https://www.amazon.com/Barriers-Bridges-Renewal-Ecosystems-Institutions/dp/0231101023

これ、かなりの良書ですね。生態系管理に携わる人は、目を通しておいたほうが良いです。(しかし587ページもあるよ、とほほ)

ざっとページをめくり、「これだ! ついに探し当てた」と思った章をググったら、なんとウェブ上にPDFがありました。が~ん。

http://parson.law.ucla.edu/pdf/parson-social-learning-theory-barriers-bridges.pdf

この文献を引用している論文をたどって、いくつかの必読文献をさらにゲット。たとえば

Biggs et al. 2012 Towards principles for enhancing the resilience of ecosystem services. Ann. Rev. Env. Resources 37: 421-448.

順応的な共同管理の原則を7つに整理。このテーマについては、すでに書いてしまったのですが、この総説を引用しないわけにはいかないので、ちゃんと読まなきゃ。原稿も改訂します。

Scienceに2017年に掲載された、これ。http://hpkx.cnjournals.com/uploadfile/news_images/hpkx/2017-09-30/Collaborative%20environment%20governance.pdf

も必読。沿岸域管理やMPAについても検討の対象にされています。

私の作業メモリー、パンク寸前です。時間も足りない。

「里海資本論」への疑問 海水を浄化しているのはカキ筏だけじゃないだろう

「里海資本論」を読んで気づいた疑問点について書きます。「里海資本論」には、カキの浄化機能はすばらしいという記述があり、カキ筏によるカキの養殖が瀬戸内海を浄化していることが強調されています。ここで言う「浄化」とは、カキが成長する過程で赤潮の原因となる栄養塩(とくにリン)を吸収することを指しています。たしかに、カキが成長する過程ではリンが吸収され、カキの収穫によってリンが瀬戸内海から取り出されます。しかし、リンを吸収して育つのはカキだけではありません。魚もノリも同様です。リンはDNAに使われる栄養素なので、あらゆる生物がその成長過程で吸収します。したがって、魚を対象とする漁業も、ノリ養殖も、瀬戸内海からのリンの除去に貢献しています。その貢献度は、重量比でおおよそ評価できます。瀬戸内海での漁獲量・収穫量統計を探したら、すぐに見つかりました。

http://www.jfa.maff.go.jp/setouti/tokei/pdf/26setogyo.pdf

この資料によれば、カキ(殻付き)の収穫量は1442百トン。

一方で、かたくちいわし、しらすいかなご、その他を合計した主要な魚の漁獲量は、1588百トン。重量比では、魚類の貢献度のほうが大きいです。

※注:カキの場合、カキ殻の重さが全体の約8割(http://www.mlit.go.jp/kowan/recycle/2/13.pdf)であり、カキ殻のリン含有量はカキ本体や魚肉より少ないので、カキの貢献度は重量比からさらに少し割り引く必要があります。

また、ノリ類養殖は884百トン。合計3914百トン中の23%です。カキは37%、魚が残る40%。ノリには骨も殻もないので、リン含有率は相対的に高いでしょう。リン含有率は、ノリ>魚>カキだろうと想定しますが、まだ裏付けデータを見つけていません。どなたかご存知の方は、ご教示ください。

いずれにせよ、カキだけが海水を浄化しているわけではありません。もちろん、魚の漁獲量の減少が続く中で、カキがリンの循環においてより重要な役割を果たしていることは確かです。しかし生態系は多くの生物の働きで成り立っているので、特定の生物の活動を増やせば生態系が良くなるという単純な発想は、避けた方が良いです。人体に万能の特効薬がないように、生態系にも万能な改善策はありません。多くの生物の関係やバランスについて配慮することが大事です。

「里海資本論」の危うさ

里山資本主義」に続いて「里海資本論」という本が出版されていることをtwitterで知り、昨日九大生協で買って読みました。2015年の出版ですね。数日前まで知らずにいました。

この本は、科学の本ではなく、著者の社会ビジョンを述べた本です。このような社会ビジョンには価値観がともなっており、「正しい」「間違っている」という判定はできません。著者の井上さんのビジョンに共感される方もたくさんいらっしゃるでしょう。私は「違いを認め合う社会」を理想としていますので、著者の社会ビジョンは尊重します。

ただし、二分法、二項対立は避けていただきたい。

<人間が、人間らしさや人間性を差し出してまでも、科学技術を最優先にした豊かさをくみ上げてきた「旧来型の文明」。それにとってかわる「新たな文明」が、にこやかに顔を出している。(139ページ)>

このように、文明を「旧来型の文明」と「新たな文明」に二分してとらえ(二分法)、「新たな文明」が「旧来型の文明」にとってかわるのが良いのだという考え、これは対立を生みます。対立をあえて作り出す二分法は、避けましょう。

二分法の問題点については、2006年に書いた記事をご参照ください。

https://yahara.hatenadiary.org/entry/20060707/1152285649

また、科学技術と人間らしさも、対立するものではありません。この点については、ハンス・ロスリングがTEDトーク「魔法の洗濯機」の中でとても共感できる説明をしています。下記のリンクからぜひご覧ください。

https://www.ted.com/talks/hans_rosling_and_the_magic_washing_machine?language=ja

このトークの冒頭でハンスが紹介している「水を薪で湧かし子供7人分の洗濯物手洗い」する暮らし、それは昔の里山の暮らしです。しかしハンスが4歳のとき、ハンスの母は洗濯機を買い、この暮らしから解放されました。これはミラクルだったとハンスは強調します。なぜか? 母は本を読む時間ができた。ハンスに本を読んで聞かせる時間ができた。ハンスのアカデミックなキャリアはここからスタートしたのだと、彼は熱っぽく語っています。彼のトークはほんとに感動的なので、ぜひ聴いてください。

科学技術は、人間がより人間らしく暮らす可能性を広げてきました。もちろん、環境問題を生み出したし、戦争にも使われている。しかしそれは、科学技術を使う人間側の問題です。科学技術が作り出した可能性を、私たちが良い方向に活用すれば、私たちはもっともっと人間らしく暮らしていける。私はそう思います。

<人が自然を征服し、神との契約によって思いのままに操れるとした西洋の一神教的思想とは異なる、この高い精神性こそが、次の時代を切り拓くと指摘されはじめている。(15ページ)>

この見解も、西洋的思想と東洋的思想の二分法ですね。実際には、西洋的思想の中にもトロールが住む森や、ムーミン谷のような、自然と調和した暮らしを追求する文化もある。一方で、日本人の精神性の下で環境破壊が起きなかったかと言えば、そんなことはありません。日本人は、古くはナウマンゾウやヘラジカなどを滅ぼし、江戸時代にもたとえば屋久島の原生林をかなりの規模で伐採しました。西洋であれ東洋であれ、文化の中に多様な思想がある一方で、経済発展・技術革新・人口増加とともに、環境破壊は起きました。その環境破壊を解決するうえで、科学技術は大きな役割を果たしてきました。

以上のような二分法は、「違いを認め合う社会」を築くうえで、大きな障害となります。この点で、「里海資本論」は危ういと思います。

「里海」概念にはそれ自体問題点もありますが、少なくとも以上のような二分法と結びついた概念ではありません。「里海資本論」のような二分法的主張に使われたことで、「里海」という言葉にはかなりの色がついてしまいました。この点は、科学者としては困ったなと思います。

「里海資本論」は二分法を使って議論を展開している点で、社会ビジョンの提示の仕方として適切ではない、という点をまず書いておきます。

情緒的な「里山」概念の危うさ2

 22日に書いた記事には、たくさんの訪問があり、このテーマに関心を持つ人が多いことがわかったので、続編を書きます。

 情緒的な「里山概念」という表現を見て、そうだそのとおり、と思った方と、やや不愉快な気持ちになられた方がいらっしゃるのではないでしょうか。「里山」という言葉は、里山は良いものだ、というある種の価値観と結びついているので、その言葉に批判的なことを書けば、このようなポジティブ・ネガティブな感情を呼びさましてしまうものと思います。

 保全生態学は、価値観を相手にせざるを得ない点で、基礎生態学とは違う困難さをかかえているのです。この点について、「自然再生事業指針」では次のように書きました。

2−5 科学的命題と価値観にもとづく判断
 <自然再生に関連する諸問題の中には , 科学的 (客観 的)に真偽が 検証できる命題 と,ある価値観 に基く判断が混在 していることに注意すべきである.生物多様性が急速に失わ れていると言う現象は客観的に証明できる命題である.一方,自然と人間の 関係 を持続可能な 関係 に維持すべきであるという判断は特定の 価値観に基づいており,客観的命題ではない .このような,持続可能性を目指すという価値観を前提として ,その 目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である。
 保全生態学が前提とする価値観については , 必ずしも社会全体の合意を得ているわけではない .人間がどのような形で持続可能に自然を利用 していくかについては ,科学的に唯一の解を決めることはできず,合意形成というプロセスを通じて初めて ,社会的な解決をはかることができる,このような合意形成のプロセスにおいて ,特定の価値観 に基づく目的が現実的 に達成できるかどうか , その目的がより上位の目的と整合性 があるかどうか ,その目的を達成するにはどのような行為が必要か ,などの問題 については,科学的に検証することが可 能である .このような問題を科学的に検証し,関係者に判断材料を提供 し, 合意形成に資する客観的な情報提供を支援することが生態学の 役割である.>

 以上の点は、保全生態学に取り組むうえで、まずしっかり理解しておいてほしいと思います。

 さて、鷲谷さんと一緒に書いた『保全生態学入門』では、二次的自然の重要性を主張する中で、以下のように「田園」とセットで「里山」という表現を使っています。

 <自然の価値の評価において従来は,ヒトの干渉が少なければ少ないほど,その自然は保護する価値が高いとされた。人間活動の影響があまり及んでいない原生的な自然の価値は,もちろん現在でも大いに重視しなければならない。しかし,上にも具体的な例で紹介したように,今日ではそれだけでなく,ヒトの干渉の大きい二次的自然についてもその保全的な価値を見直すことが必要になってきた。二次的な自然は,なんらかの人為的な干渉や管理のもとに成立するものである。原生林の伐採の後に成立する二次林,定期的な伐採,下草刈りによって維持される雑木林,放牧,火入れ,採草などによって維持される草原などがその代表的な例である。それは,自然とヒトの営為の合作ともいえる。

 そのような自然は,それぞれの地域で,工業化以前の伝統的な人々の生産・生活と結びついて維持されてきたものである。「田園」や「里山」などの言葉で表される景観をかたちづくっているのは,二次的な自然である。わが国で急速に進行しつつある,上述の例のような生物多様性の低下は,多分にそのような二次的自然からなる景観の喪失と結びついている。そのため,二次的な自然の骨格をなすともいえる,「適切な人為的攪乱によって維持される植生」の意味を問い直すことが必要となっている。>

 この主張は、今日ではかなり広く支持されていると思います。問題は、「里山」という概念が、「昔の日本人は自然と調和した暮らしをしていた」という、日本人の伝統的な暮らしを根拠なく美化する考え方と結びついてしまったことでしょう。そこで、昔の日本人は本当に自然と調和した暮らしをしていたのかを、根拠にもとづいて検証しようとしたのが、地球研の環境史プロジェクトでした。『環境史とは何か』は、その成果をまとめた本です。結論をひとことで言えば、いつも調和していたわけじゃないよ、ということです。当たり前ですが、当たり前のことにきちんと根拠を示すのは、大事です。

 『環境史とは何か』には、「いつも調和していたわけじゃないよ」という以上の大事なことがいろいろ書いてあるので、保全に取り組んでいる人には、ぜひ読んでほしいです。エッセンスが紹介されている、Shorebirdさんの書評をもういちどリンクしておきます。

https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110402/1301738928

 『環境史とは何か』をまとめるとき、湯本さんと、コモンズ論との関係を整理しようという議論をしたことを覚えています。Ostromのコモンズ論については、いま改めて勉強して考えているので、いずれまた書きたいと思います。

 里山イニシアティブの功績や、自然共生社会の概念など、関連して書きたいことはいろいろありますが、今日はここまでにします。