ハーフェズ ペルシャの詩

昨日、午前中から上京して、恵比寿の写美ホールで見てきた。
まず、月並みな感想を3つあげる。

1 映像も言葉も、美しい。これはまぎれもなく、「映像詩」である。
2 難しい。イスラム文化の背景を知らなければ理解できないことが多い。
3 麻生久美子の出番が、予想したよりもずっと少なかった。

ジャリリ監督は、映画の観客へのメッセージとして次のように語ったという。

この映画を観るときはなにも考えずに、映像だけを見てください。この映画は皆さんを違う世界に運んでくれると思います。詩を詠んだり、音楽を聴いたりする時のように、豊かな気持ちで、映画を感じてもらえたらと思います。

この監督の意図は、達せられていると思う。しかし、この映画には詩的なメッセージだけでなく、ストーリーを通じた思想的・文化的なメッセージもこめられている。その部分は難解だ。なるほどと感銘を受けた部分もあるが、イスラム世界が私の生半可な知識では理解できない社会だということを思い知らされた。それは決して嫌な思いではなくて、深遠な世界の入り口を覗いた感覚である。
もういちど見れば、ずっと理解が深まり、もっと違う受け取り方ができるかもしれない。麻生久美子はインタビュー(http://cinematoday.jp/page/A0001630)で、「1回目に観たときと、2回目に観たときとの印象があまりにも違っていて、そんな映画は初めてだったんです」と語っている。しかし、2回目を見る時間はとれそうにない。
これは私の想像だが、イランで検閲をパスするためには、ストレートな分かりやすさでテーマを表現することは難しいという事情が背景にあるのではないだろうか。伝説的な詩人ハーフェズの詩もまた、暗喩に神秘的な意味を持たせていて、簡単には理解できない場合が多いそうだ。イスラム世界においてメッセージを表現する題材として、ジャリリ監督は詩人ファービスを選び、そして表現方法においても、ファービスが用いた暗喩を随所にちりばめたのだろう。
この映画の中でもっとも印象に残ったシーンは、ハーフェズとナバート(麻生久美子)が、半砂漠の中の小さな流れにそって、幸せそうに歩く一こまである。低い潅木が点在する半砂漠の斜面を背景に、逆光が射す中をハーフェズが振り向き、光を正面から受け止めたナバートが穏やかな、聖母のような表情を返す。短いが、とても印象的なシーンである。
このシーンは、少年の瞑想の中の風景として描かれる。
ナバートは、心の病を病んでいた。ナバートは、自分が目をあわせ、言葉を交わしたために、ハーフェズが罪に問われたことを悔いていた。また、父親に強制されて、シャムセディンと結婚させられてしまった。それでもハーフェズへの思いは断ち切れず、やがて心を閉ざしてしまったのである。そこで、父親のモフティ師は、ナバートの病を治す手がかりを得るために、心を読む力をもった少年を呼んだのだった。
少年は、ナバートの心がハーフェズへの愛に満ちていることを知るが、何が見えたのかという問いに対して、「水」「風」「砂」「火」と答える。この暗喩の意味は、およそは理解できたが、深い理解に至ったのは、映画鑑賞後によく考えてからのことだ。
「水」は生命の源である。「風」は空気の流れであり、そして風に舞い上がる「砂」は、大地の呼吸である。「火」は、自然から人間に与えられた大切な生活の術であるとともに、情熱的な愛の象徴でもある。この映画は、これら4つの要素の映像詩でもある。たとえば渇いた大地を潤す川に、3匹のカエルが顔をのぞかせているシーンは、水と生命との強い結びつきを象徴しているし、強い向かい風を受け、服をたなびかせながらタンバリンを打ち鳴らす5人の男たちの後ろ姿は、風の力強さを見事にあらわしている。砂は至るところにあり、とくに子供たちが動けば、砂が舞い上がる。そして、パン(ナン)を焼く火は轟々と燃えあがり、全体として静かな映像が多いこの映画の中でとりわけ激しい動きを見せ、情熱的な感情の暗喩となっている。
このように考えてみると、「水」「風」「砂」「火」とはつまり、自然のなかに生きる自由な人間の愛を意味する隠喩なのだろう。
ナバートが心を病んでいる間に、ハーフェズは、コーランの暗唱者としての称号(すなわち「ハーフェズ」)を剥奪され、レンガ工場で働いていた。少年からのメッセージを伝え聞いた彼は、レンガにナバートへの言葉を記し、ナバートに送る。この言葉によって、ナバートの病は癒え、ハーフェズは罪を許されるが、その条件はナバートへの愛をあきらめることだった。
ハーフェズは、愛を忘れるために、「鏡の誓願」の旅に出る。「鏡の誓願」とは、7つの村で処女を探し、鏡を拭いてもらうことで、願いをかなえるという儀礼である。モフティ師が許したとはいえ、裁判所は罪を放免してはいないので、訪れる村では村長や村人から罪人扱いされる。「鏡の誓願」に協力してくれる処女を探すのは容易ではない。協力すれば、罪に問われかねないのである。
ナバートの本心を知るシャムセディンもまた、ハーフェズを追って、旅に出る。二人の旅を通じて、戒律の厳しいイスラム世界の不条理が描かれる。しかしそこに不条理への怒りは描かれていない。鞭に打たれ、牢獄に閉じ込められても、決して怒らず、人を恨まず、牢から出ればまた、旅を続ける。そこには、宗教的な魂の浄化が描かれているのかもしれないが、はっきり言って私にはよくわからない。
鏡は、めぐりめぐってシャムセディンの手に渡る。鏡を持ちかえったシャムセディンに「君にはハーフェズがふさわしい」と告げられたナバートは、岩山の洞窟(おそらく聖地)に向かい、ザクロとハーフェズのノートが置かれた鏡を拭く。そして、ハーフェズにもらったレンガを鏡の上に置くのだった。
このラストシーンは、ナバートがハーフェズの愛を受け入れ、愛が永遠のものとなったことを暗示しているのだろう。この結末に共感はできるが、物語の感動的なラストシーンという受け取り方はできない。描写はあくまでも詩的であり、映像を通じて意味を感じ取れば良いのだろうが、やや不満が残ることも事実だ。
ザクロについては、愛の象徴だろうと思ったが、「ザクロの歴史と雑学」(http://www.zakuro.com/rekishi1.html#14)を読むと、この解釈で良いようだ。
さて、この映画を観てもうひとつ興味深かったのは、イランの自然である。言うまでもなく、イランはコムギ・オオムギの原産地である。紀元前9000年頃に、メソポタミアではじまった農耕(シュメール文明)に先立ち、コムギ・オオムギを栽培化し、品種改良を進めたのはイラン高原(およびその周辺地域)にすむ人たちだった。ヤギ・ヒツジ・ウシを家畜化したのも、この地域の人たちだった。イラン高原は、ヨーロッパの文明につながる農業が誕生した土地である。
映画に描かれた植生は、メキシコのオアハカなどによく似ていた。半砂漠には低木が点在し、クッション状の草が地面を覆っている。全体として非常に乾いてはいるが、山から流れてくる水が川となり、大地を潤している。地下水が湧き出る場所には木が育ち、集落が成立する。
エチオピア周辺で暮らしていた人類の祖先も、約10万年前にアフリカを出て西アジアに分布を広げた人類集団も、おそらく乾燥地のオアシスで暮らしていたのだろう。当時は、ナイル川チグリス・ユーフラテス川に沿った平原地帯は、氾濫によるかく乱のリスクが大きくて、決して住みやすい場所ではなかったはずだ。
この映画を観ながら、人類の祖先が暮らしていた環境に思いをはせた。乾燥が厳しい環境の中で、オアシスの限られた資源を利用しながら生きるには、宗教や厳しい戒律による統制が重要だったのかもしれない。人類の協力行動の進化を促した要因のひとつは、オアシスという資源の有限性と空間的点在ではないだろうか。また、宗教や戒律が社会統治機構として発達すれば、記憶力にたけた語り部が、教義の伝承に重要な役割を果たし、高い社会的地位を得たことだろう。その結果、記憶力を増強するような淘汰が働き続けたのかもしれない。映画を観ながら、そんなことを考えた。
ハーフェズとは、コーランの暗唱者に与えられる称号である。古代ペルシャの詩人ハーフェズの本名はシャムセディン・ムハンマドという。この映画の主人公ハーフェズの本名もシャムセディン・ムハンマドであり、そしてナバートの夫となり、ハーフェズを追って旅をする人物の名もシャムセディン・ムハンマドである。この映画は、二人のシャムセディンの旅を通じて、「永遠の愛」を描いている。
旅先でハーフェズは、ひとつのグラスがふたつに見える近視の子供(処女)たちにめがねを買い与える。めがねをかけた子供たちは、ハーフェズの「グラスはいくつ?」という問いに対して、「ひとつ」と答えるが、「では私は何人に見える?」という問いには、「ふたり」と答える。
このシーンはもっとも難解で、今でもよく理解できないが、二人のシャムセディンが登場することとも関係した、何らかの意味があるのだろう。誰か意味がわかった人がいれば、ぜひご教示願いたい。
※この作品については、納得のいくレビューがまだほとんど出ていないが、ヒビコレエイガのレビューは、参考になった。