ダーウィンの足跡を訪ねて

ダーウィンの足跡を訪ねて
長谷川眞理子
集英社新書ヴィジュアル版
ISBN:4087203557

本文がわずか196ページの新書であるが、とても贅沢な本である。
何よりも、エッセイとして面白い。そのテーマは、旅行であり、歴史であり、そして人物である。しかも、ガラパゴス紀行であり、ヴィクトリア朝紀行であり、そしてダーウィン紀行である。叙情的な記述もあれば、ちょっとしたアクションシーンもある。そして、ダーウィンゆかりの地のカラー写真の数々。英国のドライブマップまでついていて、地図を見ながら読むと、目的地にたどりつくまでの臨場感が味わえる。
もともと著者は、自然科学者にしておくのがもったいないくらいのエッセイストだが、今回はいつになく筆がはずんでいる。それもそのはず、この本のベースにあるのは、ダーウィンゆかりの土地を訪ねあるくという著者の大道楽。
「もともと歴史には興味があり、あちこち旅することも好きだったので、これはたいへんに楽しいプロジェクトであった。」(あとがき)
実は、私はこのプロジェクトがスタートしたころに、著者とケンブリッジでお目にかかる機会があった。その当時すでに、いくつかの「ゆかりの地」を訪ねていた著者から、「ねぇ、聞いて、面白いのよ・・・」とはずむような声で、楽しいエピソードの数々を聞かせていただいた。それから9年間、著者は英国各地の「ゆかりの地」を訪ね、ガラパゴス諸島にも足を伸ばし、そしてこの本を書き上げた。著者が心から楽しんで書いた本である。その楽しさが、随所にあふれているので、一緒に旅をしているような楽しさを味わうことができる。
著者の情景描写は、自然科学者とは思えないほど上手だが、しかし、そこにしっかりと自然科学者の目が生きている。たとえばケンブリッジの描写。

ケンブリッジは小さな町である。800年以上の歴史を持つ古い町だが、その発展はつねに大学とともにあった。町のどこから見あげても、15世紀のカレッジの尖塔、16世紀のカレッジのチャペルなどが目に入り、窓辺にはゼラニウムフクシアが咲き乱れている。1987年に私が初めてケンブリッジを訪れたときの第一印象は、なんてきれいな、おとぎの国のような可愛い町だろう、というものであった。

あるいは、ウェールズの描写。

ウェールズはまた、起伏が激しく、イングランドとは景観が異なる。日本のような山国から来た人間からすると、どれもなだらかな丘ぐらいにしか見えないのだが、ぺったんこに平らなイングランドから見れば立派な山だ。起伏が多いので畑には向かない。そこで、ヒツジの放牧がさかんである。どこを見ても、低い石壁で囲った緑の放牧地に白いヒツジ、ヒツジ、ヒツジ。

このような情景描写の間に、歴史通の著者ならではの、絶妙な語りが冴えている。

国教会が道徳にうるさいことはよく知られている。しかし、国教会というものが成立したそもそもの始まりを考えると、道徳だなんて、ちょっと笑いたくなることは否めないだろう。なにしろ、ヘンリー八世が、男の子のできないアラゴンのキャサリンと離婚し、恋に落ちてしまったキャサリンの侍女のアン・ブーリンと再婚することを正当化するために、ローマ教会と決別して作ったのが国教会なのだから。

もちろん、これらの引用はすべて「背景」であって、本書の主題は、ダーウィンその人の一生をたどることにある。日本では、ダーウィンの人となりはあまり知られていない。どちらかと言えば偏屈なイメージを持っている人が多いだろう。しかし、ダーウィンの実像は、「何重の意味でもおもしろい」と著者は言う。

普段の現実の生活の中でも、人との出会いというものは不思議なものだ。会ったとたんに惹かれる人もいる。最初はそれほど印象はないのだが、そのうち、これはおもしろいと気づいて、とたんに惹かれるようになる人もいる。書物の著者との出会い、歴史上の人物との出会いも、同じなのだろう。知ったとたんに興味のわく人もあれば、徐々に、おもしろみがわかってきて、興味がつのってくる人もいる。私にとってのダーウィンは、まさに後者の典型であった。

こうしてダーウィンに募る思いを感じてしまった著者は、シュールズベリ郊外にあるダーウィンの生家「マウント屋敷」から、ダーウィンが埋葬されている「ウェストミンスター寺院」までを訪ね歩いた。本書は、その体験をもとに書かれている。その内容は充実していて、とても短い字数では紹介しきれない。ぜひ、本書を手にとって、ダーウィンの波乱に満ちた人生のエピソードを味わっていただきたい。
著者は、次の文章で本書を結んでいる。

温厚で真摯な性格により、多くの人々に慕われた。なにはともあれ、みんなに好かれる本当に「いい人」だった。40歳ごろに信仰を捨て、アニーの死で神の不在を確信した進化論者は、しかし、戦闘的な運動家では決してなかった。一枚の敷石だけでひっそりと、しかし確実にウェストミンスターの一画に座を占めるという事実は、ダーウィンの生き方を象徴しているのかもしれない。

歴史に名を残した自然科学者の中で、ダーウィンほどの好人物はなかなかいないと私も思う。輝かしい栄光の陰で、愛娘アニーとの死別や、長い闘病生活を経験しながら、一度しかない人生を誠実に生きた人だ。多くの伝記が書かれているが、本書はそれらも参照しながら、ダーウィンゆかりの地を訪ね歩く中で実際に見聞きした事実をもとに、ダーウィンの人生を生き生きと描いている。
長い旅の中で、著者がもっとも心を躍らせたのは、ガラパゴスだ。たくさんの動物の写真が掲載されたガラパゴス訪問記は、本書の中でもとくに楽しい章である。著者はガラパゴスの章を次のように書き始めている。

ガラパゴスの島を最初に歩いたときの感動は、今でも忘れられない。小さなゴムボートに乗ってサン・クリストバル島の周辺を回ると、もう、そこいら中に野生動物があふれていた。まずは、湾に浮かぶ何艘ものボートのデッキに、大きなアシカがゴロゴロ寝ている。人が近づいてもまったく意に介さず、ぐっすり寝ている。初めはびっくりして、感動して、写真をとりまくったが、やがて、アシカなんかどこにでもたくさんいて、少しも逃げないことがわかった。あせることはないのである。

おそらくこの感動は、ダーウィンがはじめて南米の地を踏んだときに感じたものに近いだろう。残念ながら著者はまだ、南米大陸ダーウィンゆかりの地を訪ねていない。ダーウィンめぐりの旅は、まだ終わっていないのである。著者が次の旅を企てていることは、想像にかたくない。その旅がつつがなく終わり、続編を読む楽しみが訪れることを、心から願いたい。