Brave New Ocean

指導的な海洋生態学者の中で、Jane Lubchenco とJeremy Jacksonは、実に対照的な二人である。Janeは、落ち着きを感じさせる女性研究者であり、アメリ生態学会の会長をはじめとして、会長職を歴任している人物である。おそらく対立をできるだけ避けて、チームや組織をまとめることに努力する人なのだろう。Jeremyは、長髪の男性で、長い髪を後ろで束ねたその風貌から、アウトロー的な雰囲気が感じられる。話してみると第一印象とは違ってとてもフレンドリーなのだが、しかし、自分の信念を語ることをためらわない人である。
Brave New Oceanと題した基調講演で、Jeremyは「昨日、Janeがとても美しい話をした。しかし、科学者が社会に語りかけ、市場がうまくはたらけば、海は元通りになるだろうか」と切り出した(注:原文をメモする余裕がなかったので、かなり意訳していると思う)。
続いて、レイチェルカーソンの「沈黙の春」を紹介。大学時代に読んだこの本が、彼の思想に大きな影響を与えたそうだ。
沈黙の春」の冒頭に、次のような有名な文章がある。
There was once a town in the heart of America where all life seems ….
このあと、生命にあふれた田園風景の叙述が続くが、メモをとる時間がなかった。
Jeremyは、この文章をなぞりながら、現在の海の様子を次のように描写した。
There was once an estuary where the water was sparkling, clear ….. (かつて、水が輝き、透きとおった渚があった)
そして次のように主張した。「カーソンの創作と違って、このような渚は、現実にある。問題は渚だけではない。世界中で、同じような事態が起きている(We can tell similar stories about the world)。珊瑚礁でも、コンブの森でも、大陸棚でも・・・。」
次に、Aldous Huxleyの小説「Brave New World」の表紙を写し、「World」の上に、「Ocean」と重ね書きをして、講演のタイトルの意味を説明した。
ハクスレーのこの小説は、「すばらしい新世界」という題名で訳されている(ISBN:4061370014)。しかし、Brave=「すばらしい」は、管理社会を揶揄した表現である。Brave new oceanを直訳すると、ハクスレーの本を知らない人には意味が伝わらないので、ブログのタイトルには、英語のまま使うことにした。
本題に入り、「the brave new ocean」へと海を変えている主因(major drivers)はいくつもあると主張した。
第一に、過剰収奪(Over-exploitation)。ここで、環太平洋の地図に、過剰利用を示す等値線を描き、西太平洋(つまり日本近海)での過剰利用が激しいことを主張したが、等値線が何を指標とした線だったかは、メモする余裕がなかった。漁獲量なら、松田さんによれば、イワシの自然変動を反映したものかもしれない。文献として、Chiristensen et alとMeyers and Worm 2003 があげられていた。
続いて、カリブ海でのGreen turtle nesting beachesの消失率から、過去のGreen turtleの個体数を推定し、いまや希少種と化したGreen turtleが、かつてはカリブ海の生態系の中で、現存量の点で優先種だったという見解を述べた。この話は、以前にも聞いたことがある。Jeremyの十八番である。
また、ハワイの魚群集でも、過剰収奪による大きな変化がある (Friedlander and DeMartini 2002)と言及した。
過剰収奪の話の最後に、Paul Colinvaux: Why large mammals are rare? の表紙を写し、「この本はすばらしい本だ。この問いへの答えは明快である。人間が捕るからだ」と主張。
なお、コリンボーの「なぜ猛獣の数は少ないか」は、私も名著だと思う。最近では、日本語訳は絶版になっているようだ。惜しい。
主因の二番目には、「Globalization of species」、つまり外来種の脅威をあげた。地中海では、外来種Cauluerpa taxifolia が海底をカーペットのように被っていることを紹介した。
第三の主因は、海洋の温暖化である。「誰もが地球の写真で温暖化を語るが、私の好みはこの写真だ」として、1973年と2003年のPermanent sea iceの面積の違いを示す衛星写真を紹介し、Polar ice capsが急速に解けているという事実を指摘した。
次に、珊瑚礁の白化(Coral bleaching)をあげ、白化のイベントは増えており、地理的に広がっており、そして激しさを増していると主張した。
第四の主因は、「Poisoned food webs」つまり、毒物の生物濃縮である。
極地の魚や海産哺乳類の繁殖力・生存率はともに、水銀やPCBや、他の毒物の蓄積によって減少していると指摘した。
最後の主因は、「Rise of slime」。世界中の150箇所以上の「死の海域」(dead zones)でクラゲとバクテリアが優先するに至っていると主張した。また、Karenia brevisによる有毒な赤潮が広がっていると指摘した。
では、われわれはどうすれば良いのか。この問いへのJeremyの答えは、意外なほど常識的だった。
まず変化の規模の大きさを直視しよう(Open our eyes to the magnitude of the change)。
次に、有益な問題(useful questions)に焦点をあてよう。問題は、回答可能で、検証可能でなければならない。また、適切な文脈の中に置かれなければならない。
次に、有益な戦略(useful strategies)を発展させよう。
戦略を発展させるうえで、3つのポイントがある。
第一に、生態学的にも社会的にも重要な問題に努力を集中すること。
第二に、管理を実験とみなし、リスクをとり、間違いを恐れないこと(Treat management actions as experiments, take management risks and have the courage to be wrong)。
第三に、対策がうまくいっているかどうかを判断するために生態系を監視し、偶然にそなえること(Monitor the system to determine what actions do or do not work and be prepared to chance)。
最後に、保全生態学が発展したのは、海がスライム化したあとのことだという持論を展開し、自分がめざす海の「再生」(restoration)は、スライム化以前の海を取り戻すことだと主張した。
すでに不可逆的変化が起きていて、元には戻せないかもしれないが、自分はぜひそうしたいというメッセージで、講演をしめくくった。
Jane Lubchenco の講演と比べ、Jeremy Jacksonの講演では、彼が海をどうしたいのかというメッセージが、はっきりしていた。海を壊したものへの「憤り」がひしひしと伝わってくる講演だった。トロール漁業やダイナマイトを使った漁業には、1行の文章でさらりとふれただけだったが、抑制された言及の中から、無作為殺戮への批判が伝わってきた。
彼の講演は、聞く人の価値観によっては、反発を招くかもしれない。しかし、自分の価値観をストレートに述べているので、逆にコンフリクトが顕在化している。
一方、Jane Lubchenco の講演は、さまざまな問題が「わかりやすさ」の影にかくされてしまっていたと思う。
Jane Lubchencoが提案した保全戦略は、保護区のネットワーク化である。生態系が比較的良好な状態に保たれている保護区は、稚魚の供給源になっている。その周囲での漁業は、保護区の魚を減らす要因として働いている。この、保護と漁業のコンフリクトを解消するには、保護区をネットワーク化すればよい。
つまり、保護区を徹底して守ることの代償として、その外側での収奪は認める。ただし、保護区と保護区の間の分散を保障するように漁業を管理する。このことによって、漁業も持続可能になるし、海も守られる、とJane主張した。
方向性としては、理解できる。しかし、方向性や理念だけでは管理計画はたてられないし、また、問題は漁業による収奪だけではない。JeremyがJaneの講演を「美しい話」(beautiful story)と形容したのは、このような理由からだろう。
さて、二人の主張の紹介はこれくらいにして、私の意見を書いておこう。
Janeの講演で私がもっとも違和感を抱いたのは、市民や行政に対して「simple messages」を送れという主張だ。物事は、多くの場合、そんなに単純ではない。とくに自然が相手の問題では、一面的になるのは怖い。わかりやすく伝えることはとても大切だが、正直であることも重要である。単純化された話は、多くの場合、ある種の「嘘」を含んでいる。Janeが示したアニメーションを見ながら、「これはわかりやすい」と思う一方で、アニメーションを作る過程で置かれた多くの仮定や単純化に思いをめぐらせた。
このようなアニメーションには、多くの仮定や単純化があるのだということを正直に伝えることも、科学者の重要な役割である。
先日のブログでは、話を複線化しないために、この点への言及を怠った。結果として、彼女の話の「美しい」側面だけが伝わってしまった。話を単純化すると、しばしばこのような結果を招く。
この点との関連で、「オプションを提示し、評価する」(Develop and evaluate options)という小見出しの下に、alternativeなオプションが書かれていなかったことも気になった。
Jeremyの講演では、「過剰収奪」の問題を大きくとりあげながら、漁業のあり方に関する具体的な提案が何もなかった。彼は漁業を否定してはいないはずだが、彼の目標と漁業との間にあるコンフリクトをどのように解決するのかについては、ひとことも語らなかった。
科学者は自分の価値観をどこまで語るべきだろうか。これは、難しい問題だ。市民やステーク・ホルダーの間に、意見の対立がある場合に、科学者が自分の価値観において一方の意見に賛同し、その姿勢を表明することは、合意形成を阻害する要因となりかねない。このような場合における科学者の重要な役割は、価値的命題と科学的命題をきちんと区別し、科学的に真偽を決められる範囲を明確にすることだと思う。
もちろん、科学者にも価値観はあり、それを語らずにいることは難しい。私の場合には、絶滅危惧種を守りたいという価値観があり、それが研究の原動力にもなっている。したがって、保全の現場において、中立ではありえない。しかし、どこまでが価値観による判断であり、どこまでが科学的な判定かを自覚し、周囲にその違いをはっきり述べることは可能である。
Jeremyの講演には、心を揺さぶられたが、それだけに、科学者がアジテーションを行うことの危険さにも思いを致さざるを得なかった。