柳田さんへの手紙

柳田充弘 さま

同じ生物学の研究に身を置くものとして、柳田さんのブログを、興味深く拝読しています。日ごろの「口の悪さ」は影をひそめ、若者に真剣に語りかけられている様子が、私には印象的です。
今日は、6月9日の「『過剰な』ポスドクについて」以来の一連の記事を読み、コメントを差し上げることにしました。少し長くなりますので、私のブログでコメントを書くことにします。
柳田さんのご意見には、共感するところが多いのですが、定性的な議論に終始されている点には、物足りない思いがしました。
「5千万円の機械を一台買うのよりは、むしろ一人の有望な若い研究者に機会を与えてほしい」というご意見には、まったく同感です。私も、科研費などでポスドクが雇用できるようになってからは、機械を買うのをできるだけ控えて、ポスドクを雇うことに研究費を使っています。その結果、現在、研究室には10名のポスドクがいます(うち7名は他の研究室出身者)。したがって、私も、「定職に就けないポスドクが1万5千人」(正確には、2004年度で1万2500人)という現状を作り出した責任の一端を負っています。彼ら・彼女らが、少しでも良い条件で研究に取り組めるように努力したいと思います。
さて、ポスドクが1万2500人という数に達した現時点では、「機械よりも機会」というような定性的な議論では、問題点が明らかにならないし、矛盾も解決しないと思います。ポスドクの現状の問題点について、定量的・客観的な分析が必要だと考えます。
第一次科学技術基本計画が策定され、ポスドク1万人支援計画がスタートした平成8年度(1996年)のポスドク数は6,224人でした。足かけ10年で、2倍以上に増えました。
この時点で発生しているさまざまな問題を放置したまま、「今後ますます、数年間の期限付きポジションは増えます。というか、どんどん増えてほしい、増えないと困る」と発言すれば、多くのポスドクたちは怒るでしょう。
まず、大きな数に達したポスドクにどんな未来が約束されているのかを定量的に見積もってみたいと思います。
t年におけるポスドク数をNt、博士学位取得者数をDtとします。
  Nt+1 = Nt (1-a) + b(Dt+cDt-1)
ここで、aはポスドクの転出率(就職・失職・海外転出・死亡など)、bは博士学位取得者あたりのポスドク採用率、cは博士学位取得後、ポスドクに採用されず、次の年に応募する人の割合です。ここでは、学位取得後の翌年までにポスドクになれなかった人は、将来ポスドクには採用されないと仮定します。また、いちどポスドク職から失職した人が、もういちど復帰するという推移もあるはずですが、現時点では量的に少ないと思われるので、無視します。
Dt=13,179人(平成13年の値)、文部科学省の学校基本調査によればb=0.2(平成12年の値)です。博士学位取得者のうち、ポスドクにつけない「失業者」は16%なので、c=0.16とします。近似値としてこれらの値を使い、Nt=1万200人(2003年度)、Nt+1=1万2500人(2004年度)を代入すると、a=0.07です。つまり、ポスドクは、翌年も93%の確率で、ポスドクを続けているということです。
フローの内訳について、もうすこし詳しく見てみます。ここ数年は毎年約13000人の学位取得者が生産されており、このうち2割、すなわち2600人が新たにポスドクになったと推定されます。一方で、2003年度のポスドクのうちaNt =0.07*10200=約700人が、2004年度にポスドクから転出したと推定されます。新たにポスドクになる人の数のほうがずっと多い。その結果、2003年度から2004年度にかけて2300人もポスドクが増えたわけです。このようなポスドク増加は、ポスドク・ポスト数の増加によって支えられています。
ポスドクの雇用状況については、今年はじめて、定量的な調査結果が発表されました(参照:科学技術・学術審議会人材委員会第32回の資料)。これによれば、ポスドクの46%は科研費などの競争的資金で雇用されています。このうち12%(1463人)は21世紀COEプログラムによる雇用であり、その比率は科研費による雇用(7%)を大きくうわまわり、学振特別研究員平成17年度の採用者数、1,896人(採択率15.6%)にせまっています。このような新しいプログラムによるポスドク・ポストの増加が、ここ数年のポスドク数増加を支えています。
このおかげで、ポスドクは、翌年も93%の確率で、ポスドクを続けることができるようになりました。逆に言えば、他の諸条件が変化しなければ、10年後もおよそ(0.93)^10=0.48の確率で、ポスドクを続けていることでしょう。残り52%の確率で研究職に就職できるのならまだ希望が持てますが、現実には失職するか、海外で暮らすか、研究職以外に転職する場合が多いでしょう。これでは、ポスドクたちが、将来に大きな不安を感じるのは、無理からぬことです。
柳田さんがおっしゃるように、年収500万円が支払われ、ある程度独立して研究に専念できる環境があれば、もうすこし多くのポスドクが、柳田さんの発言を支持するのではないかと思います。しかし、年収500万円を受け取っているポスドクは、一部に過ぎないと思います。私の研究室では、できるだけ多くのポスドクを雇用したいと考え、年収300万円程度の支払いでがまんしてもらっています。一部の人(次のポストを探している人)には、もっと少ない額しか払っていません。ポスドク期間が切れた場合、研究生になると、研究生料を払わねばならないというばかばかしい事情があります。1日でも雇用してあげれば、研究生料を払わずに、より多くの時間を研究に割くことができるのです。
このような雇用のしかたが、ポスドクの待遇をさげているのだ、という批判はありえるでしょう。選りすぐった数名だけに、十分な支払いをすべきだという意見は、一理あります。しかし、少なくとも私が雇用しているポスドクは、能力も実績も熱意もある若者です。
ポスドクの給与については、残念ながら統計がありません。ポスドクの待遇について参考になる数字として、大学のポスドク社会保険加入率は、35%に過ぎないというデータがあります(参照:科学技術・学術審議会人材委員会第32回の資料)。加入率が8割をこえる企業や独法のポスドクに比べ、著しく低い数字です。このような待遇上の問題を、ひとつひとつ明らかにして、解決していく必要があると思います。
より根本的な解決は、大学の教官ポストを増やすことだと思います。法人化され、効率化係数によって予算削減が続いているなかで、何を馬鹿なことをと言われそうです。しかし、私はこの対策が絶対に必要だと声を大にして主張し続けるつもりです。
そもそも、現在の状況を招いたきっかけは、大学審議会が平成3年11月に「大学院の量的整備について」という答申を出し、大学院生数を倍増する方針を打ち出したことにあります。そのころから使われている数字に、人口千人あたりの大学院生数の国際比較値があります。平成10年の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」では、次のように述べています。

このように我が国の大学院は近年著しく規模を拡大しつつあるが,人口千人当たりの大学院学生数で1.3人,学部学生に対する大学院学生の比率は6.9%(1996年)であり,アメリカの7.7人,16.4%(1994年),イギリスの4.9人,21.3%(1994年),フランスの3.5人,17.7%(1995年)など,諸外国の状況と比較するとなお大きな隔たりがある。

この答申を読んだとき、納得できずに資料を調べてみたことがあります。私の実感では、アメリカ合衆国の研究者一人が指導している大学院生数は、日本よりむしろ少ないと思います。にもかかわらず、人口千人当たりの大学院学生数が日本では1.3人,アメリカでは7.7人、というのは、納得がいかなかったのです。
すぐに分かったことは、アメリカではビジネススクールロースクールでの博士取得者が、全体の中で大きな割合をしめていることです。理系だけに限れば、日本の大学院生数は、決して少なくありません。労働力人口比でくらべた理系博士取得数では、日本はアメリカをうわまわっています。にもかかわらず、1.3人:7.7人という数字が巧みに使われ、理系の大学院生はほぼ倍増されました。いまや、日本は世界に冠たる、理系博士大国です。
問題は、その就職先です。文部科学省の報告書「博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み」によれば、合衆国の場合、理工農学分野博士取得者総数57万5千人のうち24万5千人(約40%)が4年制大学(付属研究所・病院を含む)に職を得ています。民間営利企業への就職も約40%あり、大きいのですが、「24万5千人」もの4年制大学のスタッフがいるという事実に注目する必要があります。
日本の場合、文部科学省の学校基本調査によれば、理工農学分野の国立大学教員数は約2万人です。2万人:24万5千人! 日米間で、4年制大学の教官数に、これだけ大きな差があるのです。この数字は、私の実感と合います。合衆国の大学にいくと、どの分野でも、研究者が日本より一桁多いと感じます。実に層が厚い。この一桁の差は、とてつもなく大きい。アメリカの研究の競争力は、このような4年制大学における研究者の層の厚さに支えられていると思います。
科学技術分野での日本の国際競争力を合衆国なみに引き上げるには、「1.3人:7.7人」という偽りの比較にもとづいて大学院生・博士取得者を増やすのではなく、「2万人:24万5千人」という比較にもとづいて、4年制大学の教官数を増やすべきなのです。
現在のポスドク総数(1万2500人)を4年制大学で雇用したとしても、24万5千人には遠く及びません。この事実を、まずは国民的コンセンサスにすべきだと思います。
柳田さんは、「米国のいまの圧倒的な生命科学の強さは、分厚いポスドク層に支えられているのですがね。」と書かれていますが、分厚いポスドク層よりもさらに分厚い教官層の役割に目をつぶるべきではありません。そして、24万5千人のストックがあるからこそ、フローも大きく、その結果、多くのポスドクが競争に勝ち抜けばAssistant Professorになれるという希望を持てるのです。合衆国のポスドクが置かれている状況は、「翌年も93%の確率で、ポスドクを続けている」という日本の現実とは、雲泥の差があると思います。
大学教育を改革するうえでも、教官数を増やすことは、必須だと思います。この時代にそんなことはできっこないと言われそうですが、大学が社会からの尊敬を勝ち得れば、可能だと思います。そのために努力するのが、われわれ教授層の責任ではないかと思うのです。