論文を書くのはしんどいけど楽しい

論文を書き続けるのは、道なき道をかきわけて山に登るのに似ていて、しんどいですね。ここしばらくは、おいしげった藪をこいで、力づくで前に進むような論文執筆作業を続けています。見通しが効かず、どちらに進んで良いかわからず、少し進んでは引き返して、別の道を進むという試行錯誤の繰り返し。体力(脳力)を使う、しんどい作業です。早朝覚醒型の不眠症が続き、血圧も高止まり。

なんでこんなにまでして書くかと言えば、完成すると楽しいからです。山に登頂したときの喜びに似ています。いや、作品として残るから、それ以上の喜びですね、私にとっては。

書いているのは、”Decision Science for Future Earth"というコンセプト論文。社会的問題解決の現場での意思決定に関する総説です。意欲作ですよ。7年前に始めた決断科学大学院プログラムの成果です。いろいろな分野の方から学んだ知識を総動員し、『決断科学のすすめ』で書いたスケッチをもとにロジックを精緻化し、Future Earthという大きな国際プロジェクト全体への提案として、書いています。

執筆チームの決断科学センターの若い教員の方々に、一緒に議論していただいたり、下書きを書いていただいたりして、助けていただいています。しかし、全体をまとめる作業は、私がやるしかない。私だって、若いころにはとてもこんな包括的な論文は書けませんでした。7年前でも無理でした。博士課程リーディングプログラム・オールラウンド型のコーディネータという無茶ぶりを引き受けなければ、こんな大変な仕事はぜったいやらなかった。

思い返せば、植物レッドデータブックもそうでした。かなり無理な大仕事を引き受けて、必死で取り組んだ結果、保全生態学という新しい分野の立ち上げに貢献することになりました。そういう人生を送るようなキャラに生まれついてしまったのでしょう。

サイエンス誌に、

Bodin, Ö (2017). Collaborative environmental governance: Achieving collective

action in social-ecological systems. Science 357, eaan1114.

https://science.sciencemag.org/content/357/6352/eaan1114.abstract

という総説が発表されています。最終的には、このようなスタイルの論文に仕上げて、ハイインパクト誌に投稿してみたいと思います。

・・・と息抜きにブログを書きました。

里山・里海の話題は、しばらくお預けです。『保全生態学入門』改訂作業にとりかかった後で、再度とりあげます。いちどに一つの原稿しか書けないので、当面は、”Decision Science for Future Earth"に集中します。といっても、ほんとは今日明日中に完成させないと、いろいろとやばいんですが・・。

順応管理と社会学習に関する文献

”Decision Science for Future Earth"という英文総説(コンセプト論文)を急いで仕上げる必要があり、かなり頑張っています。引用する必要があって海外発注していた以下の本が届きました。

Gunderson et al. (1995) Barriers and Bridges to the Renewal of Ecosystems and Institutions

https://www.amazon.com/Barriers-Bridges-Renewal-Ecosystems-Institutions/dp/0231101023

これ、かなりの良書ですね。生態系管理に携わる人は、目を通しておいたほうが良いです。(しかし587ページもあるよ、とほほ)

ざっとページをめくり、「これだ! ついに探し当てた」と思った章をググったら、なんとウェブ上にPDFがありました。が~ん。

http://parson.law.ucla.edu/pdf/parson-social-learning-theory-barriers-bridges.pdf

この文献を引用している論文をたどって、いくつかの必読文献をさらにゲット。たとえば

Biggs et al. 2012 Towards principles for enhancing the resilience of ecosystem services. Ann. Rev. Env. Resources 37: 421-448.

順応的な共同管理の原則を7つに整理。このテーマについては、すでに書いてしまったのですが、この総説を引用しないわけにはいかないので、ちゃんと読まなきゃ。原稿も改訂します。

Scienceに2017年に掲載された、これ。http://hpkx.cnjournals.com/uploadfile/news_images/hpkx/2017-09-30/Collaborative%20environment%20governance.pdf

も必読。沿岸域管理やMPAについても検討の対象にされています。

私の作業メモリー、パンク寸前です。時間も足りない。

「里海資本論」への疑問 海水を浄化しているのはカキ筏だけじゃないだろう

「里海資本論」を読んで気づいた疑問点について書きます。「里海資本論」には、カキの浄化機能はすばらしいという記述があり、カキ筏によるカキの養殖が瀬戸内海を浄化していることが強調されています。ここで言う「浄化」とは、カキが成長する過程で赤潮の原因となる栄養塩(とくにリン)を吸収することを指しています。たしかに、カキが成長する過程ではリンが吸収され、カキの収穫によってリンが瀬戸内海から取り出されます。しかし、リンを吸収して育つのはカキだけではありません。魚もノリも同様です。リンはDNAに使われる栄養素なので、あらゆる生物がその成長過程で吸収します。したがって、魚を対象とする漁業も、ノリ養殖も、瀬戸内海からのリンの除去に貢献しています。その貢献度は、重量比でおおよそ評価できます。瀬戸内海での漁獲量・収穫量統計を探したら、すぐに見つかりました。

http://www.jfa.maff.go.jp/setouti/tokei/pdf/26setogyo.pdf

この資料によれば、カキ(殻付き)の収穫量は1442百トン。

一方で、かたくちいわし、しらすいかなご、その他を合計した主要な魚の漁獲量は、1588百トン。重量比では、魚類の貢献度のほうが大きいです。

※注:カキの場合、カキ殻の重さが全体の約8割(http://www.mlit.go.jp/kowan/recycle/2/13.pdf)であり、カキ殻のリン含有量はカキ本体や魚肉より少ないので、カキの貢献度は重量比からさらに少し割り引く必要があります。

また、ノリ類養殖は884百トン。合計3914百トン中の23%です。カキは37%、魚が残る40%。ノリには骨も殻もないので、リン含有率は相対的に高いでしょう。リン含有率は、ノリ>魚>カキだろうと想定しますが、まだ裏付けデータを見つけていません。どなたかご存知の方は、ご教示ください。

いずれにせよ、カキだけが海水を浄化しているわけではありません。もちろん、魚の漁獲量の減少が続く中で、カキがリンの循環においてより重要な役割を果たしていることは確かです。しかし生態系は多くの生物の働きで成り立っているので、特定の生物の活動を増やせば生態系が良くなるという単純な発想は、避けた方が良いです。人体に万能の特効薬がないように、生態系にも万能な改善策はありません。多くの生物の関係やバランスについて配慮することが大事です。

「里海資本論」の危うさ

里山資本主義」に続いて「里海資本論」という本が出版されていることをtwitterで知り、昨日九大生協で買って読みました。2015年の出版ですね。数日前まで知らずにいました。

この本は、科学の本ではなく、著者の社会ビジョンを述べた本です。このような社会ビジョンには価値観がともなっており、「正しい」「間違っている」という判定はできません。著者の井上さんのビジョンに共感される方もたくさんいらっしゃるでしょう。私は「違いを認め合う社会」を理想としていますので、著者の社会ビジョンは尊重します。

ただし、二分法、二項対立は避けていただきたい。

<人間が、人間らしさや人間性を差し出してまでも、科学技術を最優先にした豊かさをくみ上げてきた「旧来型の文明」。それにとってかわる「新たな文明」が、にこやかに顔を出している。(139ページ)>

このように、文明を「旧来型の文明」と「新たな文明」に二分してとらえ(二分法)、「新たな文明」が「旧来型の文明」にとってかわるのが良いのだという考え、これは対立を生みます。対立をあえて作り出す二分法は、避けましょう。

二分法の問題点については、2006年に書いた記事をご参照ください。

https://yahara.hatenadiary.org/entry/20060707/1152285649

また、科学技術と人間らしさも、対立するものではありません。この点については、ハンス・ロスリングがTEDトーク「魔法の洗濯機」の中でとても共感できる説明をしています。下記のリンクからぜひご覧ください。

https://www.ted.com/talks/hans_rosling_and_the_magic_washing_machine?language=ja

このトークの冒頭でハンスが紹介している「水を薪で湧かし子供7人分の洗濯物手洗い」する暮らし、それは昔の里山の暮らしです。しかしハンスが4歳のとき、ハンスの母は洗濯機を買い、この暮らしから解放されました。これはミラクルだったとハンスは強調します。なぜか? 母は本を読む時間ができた。ハンスに本を読んで聞かせる時間ができた。ハンスのアカデミックなキャリアはここからスタートしたのだと、彼は熱っぽく語っています。彼のトークはほんとに感動的なので、ぜひ聴いてください。

科学技術は、人間がより人間らしく暮らす可能性を広げてきました。もちろん、環境問題を生み出したし、戦争にも使われている。しかしそれは、科学技術を使う人間側の問題です。科学技術が作り出した可能性を、私たちが良い方向に活用すれば、私たちはもっともっと人間らしく暮らしていける。私はそう思います。

<人が自然を征服し、神との契約によって思いのままに操れるとした西洋の一神教的思想とは異なる、この高い精神性こそが、次の時代を切り拓くと指摘されはじめている。(15ページ)>

この見解も、西洋的思想と東洋的思想の二分法ですね。実際には、西洋的思想の中にもトロールが住む森や、ムーミン谷のような、自然と調和した暮らしを追求する文化もある。一方で、日本人の精神性の下で環境破壊が起きなかったかと言えば、そんなことはありません。日本人は、古くはナウマンゾウやヘラジカなどを滅ぼし、江戸時代にもたとえば屋久島の原生林をかなりの規模で伐採しました。西洋であれ東洋であれ、文化の中に多様な思想がある一方で、経済発展・技術革新・人口増加とともに、環境破壊は起きました。その環境破壊を解決するうえで、科学技術は大きな役割を果たしてきました。

以上のような二分法は、「違いを認め合う社会」を築くうえで、大きな障害となります。この点で、「里海資本論」は危ういと思います。

「里海」概念にはそれ自体問題点もありますが、少なくとも以上のような二分法と結びついた概念ではありません。「里海資本論」のような二分法的主張に使われたことで、「里海」という言葉にはかなりの色がついてしまいました。この点は、科学者としては困ったなと思います。

「里海資本論」は二分法を使って議論を展開している点で、社会ビジョンの提示の仕方として適切ではない、という点をまず書いておきます。

情緒的な「里山」概念の危うさ2

 22日に書いた記事には、たくさんの訪問があり、このテーマに関心を持つ人が多いことがわかったので、続編を書きます。

 情緒的な「里山概念」という表現を見て、そうだそのとおり、と思った方と、やや不愉快な気持ちになられた方がいらっしゃるのではないでしょうか。「里山」という言葉は、里山は良いものだ、というある種の価値観と結びついているので、その言葉に批判的なことを書けば、このようなポジティブ・ネガティブな感情を呼びさましてしまうものと思います。

 保全生態学は、価値観を相手にせざるを得ない点で、基礎生態学とは違う困難さをかかえているのです。この点について、「自然再生事業指針」では次のように書きました。

2−5 科学的命題と価値観にもとづく判断
 <自然再生に関連する諸問題の中には , 科学的 (客観 的)に真偽が 検証できる命題 と,ある価値観 に基く判断が混在 していることに注意すべきである.生物多様性が急速に失わ れていると言う現象は客観的に証明できる命題である.一方,自然と人間の 関係 を持続可能な 関係 に維持すべきであるという判断は特定の 価値観に基づいており,客観的命題ではない .このような,持続可能性を目指すという価値観を前提として ,その 目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である。
 保全生態学が前提とする価値観については , 必ずしも社会全体の合意を得ているわけではない .人間がどのような形で持続可能に自然を利用 していくかについては ,科学的に唯一の解を決めることはできず,合意形成というプロセスを通じて初めて ,社会的な解決をはかることができる,このような合意形成のプロセスにおいて ,特定の価値観 に基づく目的が現実的 に達成できるかどうか , その目的がより上位の目的と整合性 があるかどうか ,その目的を達成するにはどのような行為が必要か ,などの問題 については,科学的に検証することが可 能である .このような問題を科学的に検証し,関係者に判断材料を提供 し, 合意形成に資する客観的な情報提供を支援することが生態学の 役割である.>

 以上の点は、保全生態学に取り組むうえで、まずしっかり理解しておいてほしいと思います。

 さて、鷲谷さんと一緒に書いた『保全生態学入門』では、二次的自然の重要性を主張する中で、以下のように「田園」とセットで「里山」という表現を使っています。

 <自然の価値の評価において従来は,ヒトの干渉が少なければ少ないほど,その自然は保護する価値が高いとされた。人間活動の影響があまり及んでいない原生的な自然の価値は,もちろん現在でも大いに重視しなければならない。しかし,上にも具体的な例で紹介したように,今日ではそれだけでなく,ヒトの干渉の大きい二次的自然についてもその保全的な価値を見直すことが必要になってきた。二次的な自然は,なんらかの人為的な干渉や管理のもとに成立するものである。原生林の伐採の後に成立する二次林,定期的な伐採,下草刈りによって維持される雑木林,放牧,火入れ,採草などによって維持される草原などがその代表的な例である。それは,自然とヒトの営為の合作ともいえる。

 そのような自然は,それぞれの地域で,工業化以前の伝統的な人々の生産・生活と結びついて維持されてきたものである。「田園」や「里山」などの言葉で表される景観をかたちづくっているのは,二次的な自然である。わが国で急速に進行しつつある,上述の例のような生物多様性の低下は,多分にそのような二次的自然からなる景観の喪失と結びついている。そのため,二次的な自然の骨格をなすともいえる,「適切な人為的攪乱によって維持される植生」の意味を問い直すことが必要となっている。>

 この主張は、今日ではかなり広く支持されていると思います。問題は、「里山」という概念が、「昔の日本人は自然と調和した暮らしをしていた」という、日本人の伝統的な暮らしを根拠なく美化する考え方と結びついてしまったことでしょう。そこで、昔の日本人は本当に自然と調和した暮らしをしていたのかを、根拠にもとづいて検証しようとしたのが、地球研の環境史プロジェクトでした。『環境史とは何か』は、その成果をまとめた本です。結論をひとことで言えば、いつも調和していたわけじゃないよ、ということです。当たり前ですが、当たり前のことにきちんと根拠を示すのは、大事です。

 『環境史とは何か』には、「いつも調和していたわけじゃないよ」という以上の大事なことがいろいろ書いてあるので、保全に取り組んでいる人には、ぜひ読んでほしいです。エッセンスが紹介されている、Shorebirdさんの書評をもういちどリンクしておきます。

https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110402/1301738928

 『環境史とは何か』をまとめるとき、湯本さんと、コモンズ論との関係を整理しようという議論をしたことを覚えています。Ostromのコモンズ論については、いま改めて勉強して考えているので、いずれまた書きたいと思います。

 里山イニシアティブの功績や、自然共生社会の概念など、関連して書きたいことはいろいろありますが、今日はここまでにします。

情緒的な「里山」概念の危うさ

GFBさんのツイート(https://twitter.com/MC_sashiba/status/918463407363260416)で、トキやコウノトリの野生復帰をめざす事業が行政の後押しも受けてやや前のめりになっていることを知りました。ツイートにリンクされている行政文書を斜め読みして、とりあえず以下のツイートを書いておきました。

「関東でトキやコウノトリの野生復帰を目標にする計画は、「自然再生事業指針」にまとめた原則(下記)に照らして、再検討が必要だと思います。まず、「基本認識の明確化」が不十分。」

この手の野生復帰事業は、植物の移植と一緒で、復帰先(移植先)の環境を整えずに、放鳥(移植)をやろうとしています。復帰先(移植先)の環境を整えて、自然に分布を広げてくれるようにするのが基本です。復帰先(移植先)の環境を整えずに放鳥(移植)しても、うまくいきません。これは生態学的な復元事業の大原則。

「自然再生事業指針」は、自然再生推進法ができたときに、自然再生の名の下で新たな自然破壊が進まないように原則を確立しようという意図で、20名の生態学者が知恵をしぼって作ったもの。自然再生や野生復帰に関わる人は、まずこの指針をしっかり読んでほしい。

また、GFBさんは、里山概念の危うさを指摘されています。この問題については、湯本さん、松田さんと一緒に編集した下記の本をぜひご一読ください。

環境史とは何か (シリーズ日本列島の三万五千年―人と自然の環境史)

以下の書評で内容が紹介されています。

https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110402/1301738928

私は、鷲谷・矢原著『保全生態学入門』の中で、原生林を守ることを重視する自然保護観から、二次的自然を守ることに目を向ける自然保護観への転換を主張しました(もちろん前者が不要という意味ではありません)。このような視点の転換の中で、「里山」という概念が普及しましたが、そこには情緒的な危うさもつきまとっていたと思います。

上記の『環境史とは何か』は、「昔の日本人は自然と調和した暮らしをしていた」というような情緒的な見方を、根拠にもとづいて批判的に検討することを意図して編集された本です。

この本を編集して以後も、人間と自然の関わり方については、ずっと考え続けてきました。いまとりかかっている『保全生態学入門』改訂作業では、その後の知識・思考の蓄積も生かして、可能な限り批判的かつ建設的なレビューを加筆したいと思います。

この問題は論じはじめると長くなるので、時間をみつけてすこしずつ書いていきます。この問題に関心がある方は、とりあえず『環境史とは何か』をぜひご一読ください。

 

なお、この仕事用のブログ(Y日記)のほかに、気ままなブログ(Zバージョン)を書いています。

万葉集に記録されたホトトギスの托卵

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/21

大伴旅人に贈られた卯の花ホトトギスの歌

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/20