「郵便」を作った男

郵政民営化法案が否決された。このニュースを聞いて、日本の郵便制度を作った前島密のことを思い出した。学生時代から興味を持っていた人物なのだが、伝記などを読んだことがない。ネットで検索して、次の2冊を知り、生協に注文した。

前島密前島密自叙伝 人間の記録 (21)
前島 密 (著)
日本図書センター ; ISBN:4820542621 ; (1997/06)


便生録―「前島密郵便創業談」に見る郵便事業発祥の物語
アチーブメント出版 (著), 日本郵政公社郵便事業本部
アチーブメント出版 ; ISBN:4902222000 ; (2003/04)

私の見るところ、前島密という人物は大変な策士だったと思う。郵便制度を作った人物として知られているが、彼の功績はそんな程度ではない。
彼は、明治維新を経て小作人を失い、途方にくれていた地主たちに目をつけ、「特定郵便局長」という地位を与えた。この策は大当たりで、結果として郵便局網はあっという間に全国にひろがった。そして彼は、郵便局に、郵便事業だけでなく、貯金事業を担当させた。当時の地主たちは、落ちぶれたとはいえ、それそれの土地の名士たちであった。その地主たちが、国から任命されて、「特定郵便局長」になった。この「特定郵便局」への信頼度は抜群であり、国民はこぞって「特定郵便局」の口座に貯金をした。この郵便貯金を資金として、明治政府は短期間に鉄道網を全国に展開したのである。
日本が近代国家として体制をととのえるうえで必須のインフラだった、物流網(鉄道)・通信網(郵便)とそれを支える国家資金(郵便貯金)を三位一体として完成させたのが、前島密である。その着想力と実行力には、度肝を抜かれる。
ネットで得られる情報を調べてみると、前島密と鉄道の関わりは、郵便との関わりより少し先のようだ。早稲田大学大隈重信解説サイトには、鉄道の敷設−「鉄道臆測」と題するページがあり、次のように書かれている。

(明治3年に)大隈は、前島密に命じていわく、「本日太政官に於て京浜間鉄道問題を議し、他の事項は皆論結したるも、営業上の収支の件に至りては之を弁明する能はず。実を言へば予輩は此事成らば国家の開展上、利益あるべしと信じたるのみ。(中略)足下請ふ、急に之を概算し、その答按を作成せよ」と。
前島が「鉄道憶測」という鉄道建設費と営業収支の試算を完成させるや、ただちに大隈はこれを閣議に提出しました。幸いにも「満場の賛成」を得、難問を解決することができたといいます。この功績によって前島は、同年4月12日租税権正に、翌5月10日駅逓権正に任ぜられました。

当時はまだ「郵便」という言葉はなかった。この言葉を作ったのも、前島密である。駅逓権正兼任となった前島は、太政官に郵便制度創設を建議し、郵便制度視察のために明治3年中に渡英している。このとき前島は、新橋・横浜を結ぶ京浜鉄道建設費用借款の契約締結という重要な使命を兼ねていた。おそらく、このミッションを通じて、鉄道網を全国に展開するための資金の必要性を痛感し、「特定郵便局」+「郵便貯金」という秘策を思いついたのではないだろうか。
さて、策士前島密が築き上げた郵便局網と郵便貯金が、民営化という実験にさらされようとしている。土地の名士の系図につらなる「特定郵便局長会」、およびその支援を受けた議員が猛反対するのは、当然と言えるだろう。
一方、鉄道・道路に代表される国家のインフラが相当程度に整備された現在の日本で、国家への絶大な信頼を背景とした巨大な金融「郵便貯金」は、財政投融資を通じて、いまだに道路やおよそ無駄としか思えない公共事業に使われ続けている。この状況を放置しては、日本の構造改革はあり得ないという主張にも、一理ある。
私がわからないのは、小泉首相が民営化された「郵便貯金」にどのような役割を持たせようとしているのかという点である。巨大な資金が民間に流れることが、いったいどのような結末を生むと期待しているのか?
「民間でできることは民間に」というだけでは、策がない。ひょっとして、策は必要ない、民間にまかせれば、きっと効率化すると信じているのだろうか。それはあまりにもナイーブな市場信仰ではないか。
さまざまな事業のシーズがあるのだが、資金不足のために、事業が伸びていないという状況なら、民間に資金を流すことで、新しい産業が育つだろう。しかし、現状は、銀行が国債を買い続けている状況である。また、科学技術基本計画にもとづく巨額の研究開発投資にも関わらず、研究開発の成果から新しい産業が大きく成長して、経済をひっぱっている状況には至っていない。
確かに、「郵便貯金」や「財政投融資」の改革は、必要かもしれない。しかし、その改革を成就させ、次の時代を築くには、説得力のある「策」が必要だ。
前島密は、鉄道建設反対派を沈黙させる「鉄道憶測」を完成させ、「満場の賛成」で難問を解決してみせた。さらに、秘策によって郵便網と鉄道網を国中に広げた。
郵政民営化法案が今国会で成就しなかったのは、単に「特定郵便局長会」に象徴される「反対勢力」の根強さだけが理由ではないように思う。小泉首相の口から、説得力のある「策」が聞かれなかった。そこに最も大きな敗因があるように思う。
さて、衆議院選挙ではどういう審判が下るだろうか。