生物多様性・自然の体系・植物画

明日(月曜日)開催する、「生物多様性研究拠点形成」に関する研究会で使うパワーポイントスライドの準備がようやく終わった。もう、明日である。ふ〜、ふ〜。明日の集まりは、九大で「生物多様性研究センター」(仮称)設立をめざす学内プロジェクトの研究会であり、私はプロジェクトの代表者。手は抜けない。
九大には、生物多様性に関連する分類学生態学・遺伝学・河川工学などの諸分野で、日本を代表する研究者が何人もいる。しかし、いろいろな学部に散らばっている。センターを持つ京大や北大の方が、組織的な強みがある。そこで九大でも何とかセンターを作れないかと努力しているが、学内の調整には時間も労力もかかる。学内政治にはあまり関わらないほうが、一研究者としてはハッピーかもしれないが、若い世代により良い研究条件を残すことは、立場を確立した研究者の責務だろう。そう思って、努力を続けている。
木曜日に屋久島から戻り、金曜・土曜は、東京大学屋久島の植物標本を調べることに時間を費やした。屋久島の山地上部のごく限られた場所で、ヤマアジサイの仲間が見つかった。鹿児島県レッドデータブックでは、「ナンゴクヤマアジサイ」が屋久島に分布するとされているが、東大の標本を調べた結果、私が採集したものは、「ナンゴクヤマアジサイ」より「ヒュウガアジサイ」に近いと考えるに至った。この仮説については、DNAマーカーで決着をつける必要がある。
東大総合博物館では、「Systema Naturae」(自然の体系)と題する展示が行なわれている。標本を見ることに時間を費やしたために、展示を見る余裕がなかったが、図録を入手できた。

大場秀章(編) Systema Naturae 標本は語る 東京大学総合博物館

第一部 自然の体系(大場秀章)
第二部 展示解説 鉱物界・動物界・植物界
第三部 展示 会場風景・デザイン

「Systema Naturae」は、言うまでもなく、二名法によって自然を体系づけたリンネの著作のタイトルである。第一部では、このリンネの試みの現代的価値を評価するために、ギリシャ時代の自然認識にはじまり、DNA系統学が発展した現代に至るまでの「自然の体系化」の営為を、大場さんが要領よく解説されている。
「リンネの偉大な貢献のひとつは、それまで曖昧模糊としていた自然物の理解に単位と概念を導入したことである。・・・あらゆる自然物を種を基準に分類したことである。このことにより、それまでばく然と用いられてきた「種類」と分類学は決別することに成功した」
そうなのだ。「種」は、リンネによって作られたのである。このことは良く覚えておこう。なお、当時は、鉱物にも「種」があった。
動物界の展示は、貝・魚・哺乳類に限定されている。しかし、この限定によって、展示としてはすっきりしたメニューになっている。動物標本を代表する、貝殻と骨の展示である。骨から何が読み取れるかについて、高槻成紀さんが書いている。哺乳類に関する解説なので、門外漢にも読める。貝の解説のほうは、「物」を知らない私には、なかなか手ごわい。
第3部には、「Exhibition Cook Book」と題する、展示のコンセプト(メニュー)づくり、標本一覧と配置(レシピー)から、デザイン化(スープづくり)、準備(調味)、モデリング(スパイス)、プロダクティング(できあがり)にいたるプロセスがビジュアルに解説されていて、面白い。
東京大学総合博物館の植物標本室では、大場さんには会えなかったが(ブータンにお出かけだそうだ)、上記の図録と一緒に「五百城文哉展」の招待券を入手。大場さん、ありがとうございます。
そこで土曜日に、東京ステーションギャラリーに立ち寄って、「五百城文哉展」を見てきた。五百城文哉(いおきぶんさい)は、日光に住み、高山植物のすばらしい絵を残した画家である。私が東京大学日光植物園に勤務していたころ、日光植物園に残された五百城文哉の原画から、植物園後援会の絵葉書で使う絵を選ぶ作業に携わったことがある。その当時は、五百城文哉はまったく無名の画家だった。その後の大場秀章さんの努力もあって、五百城文哉の絵は次第に広く知られるようになり、ついに東京ステーションギャラリーで展示が実施されるまでになった。実に感慨深い。
東京ステーションギャラリーの展示では、個人蔵の植物画が多数集められている。これだけのコレクションを一度に見れる機会には、なかなかめぐり会えないかもしれない。
五百城文哉の植物画は、形態学的に正確である一方で、生態的な描写もある。さらに、岩や山などの背景が絵画として高い水準で描かれていると思う。
人物画や、陽明門などの風景画は始めてみたが、五百城文哉の画力にあらためて強い印象を受けた。
おすすめの展示会である。
図録は、和風のハードカバーで、とても感じのよい仕上がりである。この図録が2000円は安い。展示は8月28日(日)まで。
なお、五百城文哉は1863年文久3年)に水戸で生まれ、明治の激動期を生きた。1884年明治17年)に、21歳で農商務省山林局に勤めた。当時、山林局には、画家の高島北海が技師として勤めており、二人の間に交流があった考えられている。植物画を描いて記録に残すことが、農商務省の公務のひとつだった時代の話である。この年にはまた、高橋由一のもとに入門し、洋画を学んでいる。
1892年(明治25年)に日光で陽明門を描き、これがきっかけとなって日光に移住した。1900年(明治33年)には、親友の城数馬とともに日光女峰山に登り、新種のランを発見した。このランは、牧野富太郎によって、ニョホウチドリ Orchis jyo-iokiana と命名された。
1902年(明治35年)には、松村任三東大教授の依頼で、日光植物園の開設に関わった。東照宮のすぐ近くにあり、私が4年間を過ごした植物園である。
1904年には、牧野富太郎が日光の五百城邸に滞在している。
五百城はこの翌年病に倒れ、1906年明治39年)に43歳でこの世を去った。